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『あかり。』第2部 #65 人の群れ、魚影の群れ・ 相米慎二監督の思い出譚

映画『魚影の群れ』にはいくつもの名シーンがある。
想像するだけでスタッフにとって吐き気がするような長回しの連続が山ほどある。
だから、ここぞとばかりに質問攻めにしたくなってしまうのだが、続け様に聞くのもはしたない気がして、監督の機嫌がいいときを見計らって、あのときはどんな感じだったのですか?と聞くようにしていた。

十朱幸代さんと緒方拳さんの長い長い追っかけのシーンがある。どれだけ走るんだと観客がため息をついてもなお、まだ走り続ける。画面はやがて雨が降る。土砂降りになる。それでも二人は走り続ける。
脚本にはどう書いてあるのだろう?
監督はスタッフにどう説明したのだろう?
役者は文句を言わなかったのだろうか?
そもそも、どう撮ったのだろう?
いや、分析すれば撮影方法がわからないわけではない。むしろわかるからこそ、どうやって撮ったのだろうと思うのだ。
さほどに、無茶な追っかけのシーンだった。

「撮影が終わった晩によ」
「ええ」
「十朱さんがオレの旅館部屋に一升瓶持ってきてさ」
お、色恋の話か……?
「それを湯呑み茶碗に注いで、何杯も一気に飲んでよ」
「一気飲みですか……」
「そうなんだよ」
監督は嬉しそうに笑った。
「酒、つえーんだ。あの人。それで、散々飲んで『あー、疲れた!』って、オレの膝、枕にしてガーッと寝てな」
「え?」
「朝までずーっと寝てたな」
監督は思い出し笑いをして、酒を含んだ。

ああ、こういうことか……。
きっと、監督は朝まで十朱さんに膝を貸したまま動かずに酒を静かに飲み、煙草を吸っていたのだろう。
そんな演出をされたら、どんな役者だって永遠に踊り続けるに違いない。

これは誰も敵わないはずだ……僕は感心して、監督の空いたぐい呑に酒を注いだ。
自分が5年経って、『魚影の群れ』を撮った監督と同い年になって、同じレベルのものを撮れるとは到底思えなかった。

『魚影の群れ』は鮪を追う漁師の話だが、漁師を取り巻く人々の話でもある。人と人が濃密に関わり、生活し、人生と格闘する映画だ。

相米監督の映画には、どれも生きるためにもがく人々の群れが映っている。
映画のための登場人物だけではない、物語の中で生きる人々が映しとられている。
だから、彼らがその後どんな人生を送ったのかが気になるし、演じた俳優たちもフィルムの中で生き続けている。

Netflixの海外ドラマシリーズで力の入った作品を見かけると、こういうのを監督にも撮ってもらいたかったなあと思うことがある。
10話くらいかけて、物語の中の人たちの人生を存分に描き切って欲しかったと考えてしまうのは、僕だけじゃないはずだ。



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