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『あかり。』 第2部 #62 『冬のたばこ』 相米慎二監督の思い出譚

冬になると思い出す鍋がいくつかある。
たとえば、ちゃんこ鍋……。
その店は、JR大塚駅にある。どこかはもう覚えていない。
指定された店に、地図を頼りに行った。
早めに着いたはずなのに、監督はもう小上がりにいて、あわててお辞儀をした。
「もう頼んどいたから」
監督はそう言った。
その日、僕の体調は最悪で、風邪をこじらせていたが、それは言い出せない。
やがて目の前に湯気をもうもうと立てた鍋が運ばれてきた。
横綱ちゃんこ。
江戸前の味なのか、そうでないのかよくわからないけど、風邪で痺れた舌にもそのスープは美味しかった。
あとそこの料理で記憶にあるのは、やたらと大きい出汁巻卵だ。分厚くて黄色が濃い。その色味がやたらと鮮やかに目の奥に残っている。
その晩、監督は上機嫌で饒舌だった。なにを話していたのかまったく記憶にないのが残念だけど、ただ熱にうなされながら話を聞いていただけだった。
あらかた食べてしまうと、監督は勘定を済ませ「もう一軒行くか」と言った。
帰りたかったけど、そうもいかないので、ついていく。
「ここ寄るか……」
「あ、はい」
たどり着いたのは、なぜか屋台だった。
なんでこんなところに屋台が……?と思ったが、暖簾をくぐった。
そこでなにを飲んだのだろうか。それも記憶がない。
ただ、しばらくすると隣の初老の男性に話しかけられたのを覚えている。
その人は、監督の吸っているショートピースに目を留めて話しかけてきたのだ。
「いいタバコ吸ってますね」
タバコを褒められるなんて、初めてのことだ(僕のではないけれど)。
その人はかつて日本たばこ(今のJT)に勤めていて、タバコの製造に関わっていたらしい。
話によると、他のタバコはまがい物で、本当のタバコはショートピースだけなんだ……ということらしく、近頃では吸う人が減ったことを嘆くのであった。
確かに、その頃でもタバコを吸う人は減っていたし、ましてや強いタバコを吸う人は少なかった。
僕たちは3人で両切りのショートピースを吹かしながら、冬の屋台で熱い日本酒をすすった。
最近、何冊か読んだ小説の主人公が吸うタバコがショートピースで、読むとあのタバコの匂いが思い出された。
自分では、吸うことないタバコだけど、いつもカバンの中には入れていたショートピース。
 
明日、たばこ屋で買ってみようか。
どこかの寒空で、一本だけ吹かしてみようか。


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