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『あかり。』第2部・相米慎二監督の思い出譚 / S#71 絵コンテとはなんだ?

ずいぶん昔に、漫画家の内田春菊さんに僕の絵コンテを見せたとき、「あんた、漫画家になればいいじゃん」と言われたことがある。本職に言われるとなんだか恥ずかしくて慌てて引っ込めた。僕のコンテはあくまで素人絵で、デッサンも学んだことはないし、雰囲気だけの到底売り物になる代物ではないのだ。
それでも春菊さんに漫画家御用達の画材を教えてもらって、世界堂にいそいそと買いに行った。(スクリーントーンまで!)

どうしてそこまでしたかというと、単純にコンプレックスである。
美大出身のディレクターの描くコンテは、上手でいつも引け目を感じていた。
絵がうまくなりたいという欲求はあったが、練習するわけでもなかった。
今になって思うのだけど、また『絵』を書いてみたい。

さて映画の絵コンテというのは、マニア以外興味のないものであろうし、ただの設計図。実際文字でも構わない。ex.聡子手元のアップ。カップを持つ……とか。
CGを合成したりするなら、絵コンテ専門のプロのコンテマンが書いたものでないと正確な設計図にはならない。
つまり、その下絵……こんな絵数が欲しいんだけど……というスタッフへのメッセージだけの役割だ。

それでも「かわいいひと」の脚本を全部絵コンテにすると、かなりの枚数になった。

監督にコンテを見てもらうと、ぱらぱらとめくり「ふうん」と言ってニヤリとして、ばさっとテーブルに投げ出した。
「いいんじゃないの」
「ありがとうございます」
僕はほっとしてコンテをカバンにしまった。

結局、その絵コンテがどうなったかといえば、原本はどこかに霧散し、コピーすらあるかどうか。
そんなものである。

それに結局、ほとんどコンテ通りに撮らなかった……というより撮れなかったのだ。
頭の中で考えた芝居やカット割は、その場でどんどん修正して、修正しているうちに原型はなくなり、全く違うものになる。
それを毎日繰り返した。

面白いものだなあ……そんなことを思っていた。

以前の広告仕事の際、コンテをきっちり作ったCMで、制作部に「監督、コンテ通りですね!」と嬉々として仕上がりを褒められたことがある。しかし、そのとき内心感じたのは「それじゃ、意味がないんだよ。コンテ以上になってないと!」という逃げ出したいような恥ずかしさだった。コンテ通りは僕にとって褒め言葉ではなく、むしろ侮辱に感じるような癖になっていた。

今回の映画(みたいなもの)ではコンテは契約書ではないので、自由だった。だから切ったコンテに拘らず変えることができた。

しかし、演出がカット割を準備せず、撮影部頼みで手ぶらで現場に行くのはやはり失礼だと思う。最低限、準備をして、もっといいアングルやサイズがあったらバンバン変えてくださいね!くらいの温度でいる方がいい(ような気がしている。今は)

監督が教えてくれたのは、考えることは惜しむな。しかし執着するな。執着すべきは芝居の中身だ、である。演出の眼差しこそが大切で、その映像のサイズはそれに自然と従うものなのだ。

僕は監督のワンシーン・ワンカットの信望者ではないので、カットを割ってテンポがある編集が好みだった。(それは今もそうだ)
しかし、この作品を通して、後で編集はするが、なるべくワンシーンは長く回して、アングルを変えて、テイクを重ねていく撮り方に変化していった。
それはごく自然に自分の中で変わっていった。

今、小説のアイデアなどが浮かぶと、物語のイメージと一緒に、文章の断片と映像が浮かぶ。その中で自分勝手にキャスティングした役者が動き回り、それを少し遅れて文章で描写することを頭の中で繰り返している。もちろんカットも割れている。
脳内映画の文章化みたいな感じだろうか。(だから細かい描写は後から肉付けする羽目になる)

で、その脳内映像を演出しているのが監督の場合もある。監督ならこう演出するのじゃないか……と想像した動きを脳内の役者が動いている。
そんな浅き夢をよく見るのだ。

書き上げて、読んでもらいたいけど、それが叶わないのは少々辛いところだ。

このキャストの3人姉妹ならどうでしょう?
夕方、思いついた3人の女優を監督に提案してみる。
けっこういいと思うんですよ、と僕。
3人とも高身長で、顔もなんとなく方向性が似ている。役者としての出自はバラバラだが、みんな腕は確かだ。この3人が監督の演出で弾けていくのを見てみたい。3人も嬉々として取り組んでくれるはずだ。

書かなきゃな……とも思うのだけど、ジャックの介護生活の合間では難しい。

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