見出し画像

SFアニメ的想像力の必要性について - 『サイコパス』編 -

最近私は高校生や大学生と接する機会が増えており、関わる学生も「起業家を目指していて、ビジコンで日本を勝ち抜いてサンフランシスコでの世界大会まで行った」だとか、「トビタテ留学JAPANに選ばれて、アメリカに留学してきました」だとか、かなり優秀な子たちと関わることが多いです。

そういう学生と関わっていて思うのが、「彼らは優秀であるにも関わらず、未来に対する想像力がそこまで豊かではないのではないか?」ということです。個人的にこの状態に対して少し不安を感じています。

21世紀あらゆる社会設計が、テクノロジーのパワーを中心に再編されつつある中で、ミクロな観点からは、人間レベルでの幸福だとか、Well-Beingだとか、私達自身の幸福な人生について自ら定義を考えながら生きていく必要があります。また、マクロな観点からは、ドラスティックな変化の向こう側に、どのような社会を私達自身が設計・実装していくのかを考えていく、ということが必要になると思います。

それらを考えるにあたって、自分たちの先達にあたる人たちが、何か形に残る作品として創造した未来的な想像力をコンテンツとして摂取し、自分なりの解釈・分析を行い、未来の可能性に対して想像力と知見を深めることは非常に大事なはずです。

にもかかわらず、やはり日本の特定の若い人たちの「SF的想像力」、言い換えると「未来への想像力」が、ある一定脆弱であることに不安を感じることがあります。手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄などを筆頭に、日本のコンテンツは非常に強力な未来への想像力を表現したものが多い。それにも関わらず日本の若者の未来への想像力が強いようには思えないんですね。

と、真面目ぶった導入を書いてみたのですが、単純に僕が昔からアニメや文学オタク的側面があるので、そのあたりのコンテンツ愛を共有できなくて淋しい、という非常に子どもっぽい淋しさも抱えているわけです。
そのため、最近Netflixで再度BGM(Back Ground Movie)的に『サイコパス』を視聴したので、『サイコパス』から考える未来への想像力についてちょっと書いてみたいと思います。

『サイコパス』第一話「犯罪係数」より

そもそもの世界観

まず、『サイコパス』はそもそもの世界観の設定が良いですよね。
インターネットやIoT社会において、常に倫理的な批判としてつきまとうのが、「監視社会」的な批判です。サイコパスはその「監視社会」的な批判を突き抜けた未来の世界を舞台設定として描いています。

僕は『サイコパス』の制作陣のインタビューまで調べたりとかはしていないのですが、きっと原作者か、監督や制作陣は伊藤計劃のファンです。これは僕の勝手な想像ですけど、伊藤計劃の『ハーモニー』という小説を参照していないとは思えないですよね。『ハーモニー』の世界をよりポップにデフォルメし、刑事モノとすることによって大衆的な消費がしやすいコンテンツにしたのだと思っています。あと、後述するんですが、刑事モノにしたいうところに、ありきたりですが『攻殻機動隊』への憧憬があるとも思っています(この辺本当に適当に書いてるので、きちんとした批評家とか本当の作者の人とか、全然違ってたらすいません。駄文なのでお許しください)。

このあたりの監視社会的な話は、もはや僕たちは現実的に実現可能なものとして受け止めないといけないものになってしまっていますよね。

最近の話だと、下記の中国の話なんて、もはや既に社会実装されちゃってて、倫理的な反対とか全く無視だぜ、という世界観ですよね。
また、昨年(2018年)に話題になったスウェーデンの体内へのチップ埋め込みのニュースも、より深い生体情報まで利用した監視社会に繋がるため、ソフトウェア設計と社会制度設計をどのようにするかによりますが、よりドラスティックな監視社会的事例となりえるでしょう。

『サイコパス』は、この舞台設定だけで、上述したような中国のあり方をどのように僕たちが受け止めるべきなのか、という時事的なトピックにも繋げられます。
少し議論を深めると、そもそも僕たちがそのような監視社会をどのように受け止めるのか、ということは既に20年ほど前から社会学界隈では議論されており、「ハイパーパノプティコン」という名前でトピック化されています。
もう一段僕たちにとって身近な「民主主義」的な議論にすると、2000年頃にキャス・サンスティーンが書いた『インターネットは民主主義の敵か』というような議論にも接続できますね。

個人的には、このあたりの議論は、「監視社会を批判する」という形では何も前に進まないため、「監視社会は不可避に進行するであろう。であるならば我々はいかにそのような社会を受け入れ、設計するのか。監視社会が実装された社会において、僕たちはどのようなWell-Beingを実現できるのか」という議論をした方がよい、と思っています。

人間は、人を殺しやすくなるけれども農機具を使い、大量殺戮兵器になるけれどもダイナマイトを使い、数万年後にも汚染物質を垂れ流し続けるかもしれなくても核物質を使います。人類という種族は歴史的に見て、マクロにもミクロに低きに流れる、易きに流れるのは間違いないので、監視社会を批判するだけでは意味がない。批判が一定の意味を持つのは、社会に対して熟慮を促すきっかけになる、という部分のみなので、建設的批判をするべきだったりするわけです。

話は逸れましたが、「ハイパーパノプティコン」と呼ばれる監視社会が来ることを前提として、それをどのように設計するのか、という僕たちが未来を考えるにあたって避けて通れない命題を、『サイコパス』というアニメの世界設定自体が投げかけてくれます。いやぁ、その1点においてだけでも、見ておくべき価値のあるアニメだな、と思います。


都市空間の設計

第一話に出てくる、都市空間の描写も非常に見どころだな、と思っています。

雑居ビル区画が低所得者層の居住区画のように描かれ、そこが「シビュラシステム」と呼ばれるシステムの監視(ドローンなど)が入り込みづらい区画として、システムから取り残された区画として描かれています。

これらのイメージは、押井守、神山健治いずれの『攻殻機動隊』シリーズにおいても描かれている近未来の都市描写です。そして、このような「メガロポリス的都市にグローバル資本が集約する一方で、その中には二極分化した経済格差が存在し、低所得者層区画がある種中華街的雰囲気を持った雑居ビル的空間として描かれる」という想像力は、未来都市描写としての1つのパターンとして受け止めるられるものでしょう。

これは、現在のグローバル資本主義の流れが、世界中のメガロポリスに人・モノ・金を集中させ、富をどんどん蓄積していくという流れの一方で、肥大化した都市を運用するための単純労働者を抱え込む必要にも迫られており、必然的に二極化した経済格差を都市空間内に包摂する必要性を内包している、という現在のメガロポリス的都市の実体を空間描写に投射したものだと考えることができます。そして、未来都市への想像力は、基本的に類似のパターンで描かれている、ということが私たちにとっては一つの学びとなります。
このような都市空間の描写から、僕たちはその裏にある制作者の社会の解釈、その背景にある現在の社会の実体を一定読み込むことができます。(ちなみに学問的にこういう読み解き方ををすることを「表象文化論」などと呼びます)

実際には、『サイコパス』で描写されているこのような都市設計は過渡期的なものとなるだろう、と個人的には考えています。
AIやロボットが都市の運用に必要な単純労働をある一定代替していくと同時に、スマートシティなどのソリューションが都市の運用をより効率化していくと、メガロポリスの中から人間の単純労働が不要になっていくことが想定されるためです。

過渡期の向こう側のさらに未来まで行くと、先ほど一瞬名前を出した伊藤計劃の『ハーモニー』のアニメ描写が描くような、より清潔さによって漂白されたホワイトキューブ的都市空間設計が普通になっていく、という未来が想定されるでしょう。


ドミネイターの設計

また、ドミネイターの設計も面白いですね。

ドミネイターはサイコパスの捜査官が持っている銃です。各捜査官が持った時に、おそらく生体認証によって持ち主を判別し、持ち主が利用者登録されている捜査官であるときだけ使用可能となるハイテク拳銃みたいなものです。

これを主人公の常守葵(つねもり あおい)が初めて持った時に、征陸智己(まさおか ともみ)が説明する下記の発言が面白いですね。

あぁーそれな、指向性音声だから握ってるあんたにしか聞こえんよ

これを初めて聞いたときに「指向性音声すげぇ」ってやっぱり思ってしまうんですよね。というか、まさおかともみ、かっこいいですよね。

僕は、この「指向性音声」ってことばを聞いたら、これって今どれくらい実現できるんだろう、って調べずには居られなくなるタイプです。
で、調べるまでもなくなんですけど、現代の魔術師と呼ばれる落合陽一さんが研究している一つのものに、「超指向性スピーカー」ってあるんですよね。

こういうものがある種研究室レベルで実用がみえるところまで開発されているというのを知ると、5年以内にはある種のデファクトスタンダードとして、社会実装される未来が予見できるわけです。

もしかすると今後、音声が広告の主流となったときに、不特定多数の人間が行き来する都市空間において、特定の年齢層と性別を画像解析でリアルタイムにターゲティングしながら、超指向性スピーカーによって広告メッセージを届ける、みたいなことも実現できるかもしれないわけです。(実際あったら鬱陶しいですね、友だちと話してるんだけど?みたいなタイミングだと、イライラしそうw)

あとは、家の中でのスマートスピーカーとかも変わりそうですよね。一台のスマートスピーカーが家族の場所を判定しながら、それぞれに対して個別の音声を打ち込むように情報を伝えてくれるかもしれない。音楽を聞かせてくれるかもしれない。そうなったときに、イヤホンレスでイヤホンを付けているような生活ができるようになるかもしれない、だとか。

ドミネイターを紹介しているまさおか ともみの一言を聞いた瞬間に、こういう想像力が掻き立てられたりするわけです。『サイコパス』すげぇ。


クリエイターへのリスペクトが大事

『サイコパス』の第一話見たときに感じたこと、だけでここまで来てしまって、ちょっと疲れてしまったので、今日はここまで、です。
正直第二話でも、家にホログラム型音声アシスタントが飛んでたり、家具はホログラムでデコる描写になっていたり、電子レンジがなんでも作れて「中にすかいらーくの厨房入ってるの?」状態だったり、とか、むしろ第二話の方がこういう面白いトピックが多かった印象がありますが、それはまた今度気が向いたら、ということで。


いずれにしても、こんなどうでも良いよもやま話を書くことで伝えたいのは、「クリエイターへのリスペクトは本当に大事」ということです。

こういうことは、クリエイターを目指したことがあるとか、研究者を目指したことがある、とか、本気で当事者意識を持って「想像」ないし「創造」へ体を張って取り組んだ人でないと持てない感覚なのかもしれないですが、「クリエイターへの尊敬」は本当に大事です。

西欧的な史的感覚で話すと、文字を利用して書籍と呼ばれるようなまとまった文章を初めて残したのはプラトンだと言われています。ですが、多くの人が「自分がプラトンだったら文字で何かを残しただろうか?」という想像力を働かせません。

当時おそらく、プラトンが生きたギリシャで文字を読める人は1%も居なかったでしょう。しかも、当時はおそらく石版か羊皮紙かパピルスみたいな素材に文字を書いていたので、運搬とか複写とか全然できないですし、「書いたところで誰に読まれるねん?」という状態だったはずです。

近代に至って小説なども増えたり、思想書なども増えました。僕は近代民主主義の父であるジャン=ジャック・ルソーが好きですが、彼が生きた18世紀フランスの識字率は10%ほど、と言われています。ルソーの時代は、活版印刷は当たり前に存在していましたし、コーヒーハウスやサロンでの議論なども活発化していたので、文字に起こすということに一定の価値を感じられたのかもしれませんが、それでも全市民の10%しか文字を読めなかったわけです。

歴史上に名前が残っているクリエイターは、このような「誰に届くねん?」という状況で多くのクリエイションとしての創作物を残しています。
そしてそれらを読むことで僕たちは当時の社会背景を知ることが出来ますし、歴史学的な史料から当時の社会背景を別途調べることで、彼らのクリエイションが、それぞれの時代においてどのような価値を持ったのか、より深く知ることもできるでしょう。

特に日本人は、クリエイターのクリエイションへの尊敬が弱いな、と感じることがあります。これはアートへの理解力が低いことや、アートが正しく評価されない、ということにも繋がるのかもしれません。もしかすると、最近までITエンジニアでさえ「IT土方」と呼ばれていましたが、日本は近代以降の文化・制度がクリエイションへの評価を阻害してきているのでしょう。


今回は『サイコパス』、しかもまだ第一話を題材にしただけで、正直芋づるで思わず書き出しそうなことが沢山ありました(伊藤計劃ってそもそも、とか、『ハーモニー』ってそもそも、とか)。

冒頭でも述べたように、21世紀はグローバルな不確実性とその向こう側に僕たちが新しい社会や生き方を構想していく時代です。
そんな中では、不確実性の中から課題を見出し、それを解決していくような「広い視野を持った課題解決」的な視点はすごく大切です。

他方で、未来を構想していく、という視点も同じように大切ではないかと考えています。こんなに大きな変化のタイミングに生きているという未曾有のチャンスに生まれたのに、未来を創造する側に回ろうとしないのは、目の前に100億円積まれてるのに全く手を付けない、くらいに意味不明な選択だと思うので。

そして、そんな未来への構想力の源泉となるのが、「既に素晴らしい想像力を発揮して形にしているクリエイターへのリスペクトと、その作品へ没入すること」でしょう。もちろんそれが全てではありませんが、そのような姿勢が私たちの未来への想像力・構想力に多大なるヒントを、凝集されたエッセンスを、沢山与えてくれるでしょう。


最後は急遽なぞの自分の事業の宣伝になりますが(笑)、
僕が海外で運営している多国籍テックスクールは、プログラミングを学ぶだけではなく、より多様な価値観と接する中でテクノロジーの本質を学び、テクノロジーを利用して未来を創っていくような人材が巣立つ場所にしたい、という想いのもと運営しています。

なんとなく大学へ行って4年間の学費に300〜400万円使うくらいなら、手に職を付けられるプログラミングを1年間学び、このような周辺的な思考や考えも吸収し、未来を作るための「想像力」と「創造力」の両方を手に入れてもらえる場としてもらいたい、と思っています。

この文章を読んでくれた特に若い年齢層の人たちは、ぜひ一度、アニメの第一話をネタにするだけで、思わずこんな長文書いちゃうマネージャーがやっているテックスクールを興味深く思ってもらえれば嬉しく思います。

もちろん社会人の方にも門戸は開いていますし、その辺のスクールより密度が濃いコンテンツとサポートを提供しています。ぜひ一度見てみてください。


サイコパスを見たい人はこちら↓
ちょうど今日トピックにした第一話はAmazon Primeで無料で見れるみたいなので、興味を持った人は下記から。もちろんNetflixを日本から視聴できる人はNetflixで見れますよ!


私の管理するテックスクールは、未来を担う人材育成をしたいと考え、私設奨学金として受講生へ割引をしたいと考えています。 もし記事を読んでサポート頂けますと、弊社スクールを検討する学生への奨学金としてプールし、還元していきます。小額でもぜひ、サポート頂けますと幸いです。