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きみが泣いた夜のこと

私の妻は口が悪い。
ただの飲み友だった 4年ほどの間は、その毒舌が私の毒舌とシナジーして、愉快な関係を続けていられた。
 
ところが、思わぬアクシデントによって男女の関係になってから、ケンカの絶えない日々が始まった。
「犬も喰わぬ」などと形容されるような微笑ましいものではない。
腹の底から憎み合ったし、あらんかぎりの言葉を尽くして罵り合った。
こんなことなら飲み友のままでいればよかった、と思った。
 
それでも、男と女のことだ。
彼女が懐妊したことで、私たちは、思考を停めて結婚することにした。
そのとき私は 40歳、彼女は 31歳だった。
 
籍を入れ、彼女は娘を出産した。
私は幸せだったと思う。
生まれたばかりの赤子と暮らしながら、それでも私たちはよくケンカした。
いい歳こいて何やってんだか。
なんでこんな奴と結婚してしまったんだ?という思いが、双方にあった。
 
あれから 10年たつ。
今、私たちはケンカしなくなっている。
妻は、相変わらず口が悪いし、私の神経を逆撫ですることを平気で言う。
でも、私はすべてゆるしている。
たぶん、あの日の記憶が私の心のなかに棲んでいるからだろう。


彼女と結婚して 1年後、私たちはスイスに移住しました。
海外生活で夫婦の結束が強まった部分もありましたが、東京生活とはまた違うストレスもあって、些細なことで衝突していました。
 
あれは、私たちがスイスに住んで 3年もたった頃のことです。
その地域には毎年恒例の「日本祭り」というのがあって、そこに住む日本人たちはボランティア的に祭りの運営に協力していました。
その年、スイスに来たばかりのひとりの女が、新たに運営メンバーに加わりました。
 
その女は、男たちの視線を集めるタイプの女でした。
私は、人の顔のカタチについて美しいとか美人と表現することを好みません。そこには普遍性も客観性もないと思っているからです。
ある男が、ある女の顔に惹かれることは、もちろんあります。しかし、それは個人ベースの経験であって、一般化できるものではありません。
 
さて、その女とは、どんな女だったのか。
 
✅ パッチリした目を強調するような上向きクルンまつ毛
✅ 亜麻色の長い髪をコテでクルクル巻いたゆるふわヘア
✅ いろんなものがトッピングされたゲージツ的なネイル
✅ 露出高めのニット・膝上フレア・ストラップサンダル
 
女性陣からしたら、ひくわ~、というタイプでしたが、男性陣にとっては、つい気になってしまう女だったのでしょう。


当時は、娘を寝かせたあと妻と少し飲むのが日課でした。
日本祭りの準備について話したときのこと。
妻は、くだんの女と同じ、焼き鳥の屋台チームにいました。
資材の調達は男性陣の担当、地域住民への広報は女性陣の担当だそうです。
 
お祭りのお手伝いってやっぱ楽しいねー、と妻は明るく話しました。
運営チームの話題でゲラゲラと笑い合ってから、しばらく沈黙が続きました。
 
妻「〇〇さんが苦手なんだよね」
 
そのひと言で、私はピンときました。
〇〇さんといえば、あの女しかいない。
 
私「〇〇さんと何かあったん?」
 
妻はビールを一口飲んで天井を見上げた。
 
私「なんかムカつくこと言われた、とか?」
 
妻「アナタは焼き鳥屋のチラシ配ってきて、って言われた」
 
あの女にか。
その情況を思い浮かべた。
そんなこと・・・と言おうとして、彼女を見て、私は、おののいた。
彼女が、苦しさに耐えるように泪を流している。
 
え?
らしくないにもほどがある。
私は理性と感情を総動員して、彼女の心のうちを想像しようとした。
 
年下のモテ系コムスメからエラそうに指図されたことが、よほどくやしかったのか。
いや、そんなことで泣く彼女は、私のデータベースにはない。
「誰に言ってんの?お嬢ちゃん」
と、微笑みかえすのが私の知っている彼女だ。
 
あの女が、男どもにチヤホヤされている空気は私も感じていた。
あの女を敵にしたら、全男性陣を敵にまわすことになるとでも思ったか。
 
かたや、女性陣があの女を快く思っていないことは想像に難くない。
しかし、あの女の高飛車をへし折る勇気のある女性はいない。
私の妻を除いて。
 
それができなかった自分を許せないのか。
女性陣の期待に応えられなかったことがくやしいのか。
 
それらはすべて、私の想像にすぎない。
私は、彼女から泪のわけを訊く気になれなかった。
言いたいことは頭のなかでグルグルまわっていた。
泣いたらあかん。
おまえ、負けてへん。
ようガマンしたやないか。
 
でも、何も言えなかった。
 
ついに彼女は、わーんと声をあげて泣いた。
 
私はどうしたらいいのかわからなかった。
ただ、彼女をやさしく抱きしめたかった。


今でも私は、きみが泣いた夜のことを昨日のことのように憶えています。
あんなに強くて憎たらしかったきみが、子供のように泣きました。
前にも後にも一度も泣いたことのないきみが、一度だけ弱さを見せました。
ずるいですよ。
この先もずっと私はきみを慈しみ生きていくしかないじゃないですか。
でも、そんな人生を悪くないと思っています。