思い出すことなど(62)

翻訳に関する思い出を「思い出すことなど」と題して、色々と書いていきます。今はだいたい1995年頃の話です...

支店長、Mさん、私の三人は待合室から会議室へと通された。大企業なので建物もすごい。さらに緊張感が高まる...いや、大丈夫、言うべきことをしっかり言えば説得できるはず。がんばれ俺。

先方の担当者が現れた。名刺交換、いつまで経ってもうまくできない。両手で渡しながら両手で受け取るなんて神業だよ、できるわけない。とにかく丁寧に挨拶。深々とお辞儀。誠意と熱意を態度で示す。

担当者の口ぶりでは、翻訳の仕事自体はとても多そうだった。良い外注先があれば、すぐにでも大量に出したい、そんな事情が伝わってきた。今だ、ここを逃してはならない。

「たまたま、ですが、私は前職で御社のシステムの移植作業に携わっていまして、中身は理解しています。これは他にはない強みだと思います。当たり前のことではありますが、システムを触った経験があって、細かい部分で勘がはたらく人間でないと、良い訳文は作れません。私としても、経験と知識を存分に活かせる仕事ができればとても嬉しいことだと思っています」

「なるほど、どうやらとても頼りになりそうですねえ」

好感触だ。そのあとも、会話の端々でわざとらしく「知識あるよ」アピールを繰り返した。思い出すとだいぶ恥ずかしい。でも、担当者が次第に安心の笑顔になっていくのがよくわかった。

その打ち合わせは、ほぼ担当者と私の会話だった。Mさんと支店長の入り込む余地はなかった。だが、場が良い雰囲気になっていることは二人とも感じ取ったようだ。帰り道はどちらも上機嫌だった。

「もう決まった。仕事は絶対に来る」

三人ともそう確信することができた。だが、そうなると、私の心はある大きな不安に支配され始めた...考えてみれば、その時まで平気だったのが不思議なくらいだった...実に当たり前のことに、その時まで私は気づいていなかった。いや、気づかないふりをしていた。

―つづく―

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