思い出すことなど(16)

翻訳に関する思い出を「思い出すことなど」と題して、色々と書いていきます。順不同かもしれません(最初のうちは、以前、Webマガジンに書いたものの転載です)。

(前回の続き)
楽しいイギリスでの日々は永遠に続くかに思われたが、そんなはずはない。間もなく帰国の日がやって来た。帰国してすぐに親の家に顔を出した。今行かなくていつ行くのか、という感じだったし。
「会社も辞めて、これから本当に大丈夫なのか?」と父親に尋ねられた。自信満々だった私はきっぱりと「うん、大丈夫」と答えた。不安など、どこにもありそうに思えなかった。最初から圧倒的な実力を持っている(当時はそう思っていた)のに、誰にもかなわないほどの努力までしたのだ。これでうまくいかないわけはない。
何日かして、久しぶりに横浜へと戻った。さあ、これから本格的に自由の身だ。順調に望み通りの道を歩んでいると思えた。だが、である。
どうも何かがおかしい。まず、時間がいくらでもあるのに、勉強をあまりしなくなった。時間がない時には工夫して時間を捻出して懸命にやっていたのに、朝から何をしても自由、となったら、だらけてしまう。だらけていても、他にやることはあまりない。そのうち、孤独感に悩まされるようになった。元来、一人でいることは苦にならないどころか好きな方だった。そうでないと、本など読めないだろう。本は一人で読むものだ。誰にも邪魔されず、ずっと一人で過ごすのだとわくわくしていたのに、実際にそういう毎日が始まったら、寂しさに耐えられない。それまで経験したことのない感覚。
そうなった原因は、はっきりわからないが、おそらくいきなり「どこにも属していない」存在になったからだと思う。どこにも属していなくても、何か仕事をしていて、誰かに必要とされている感覚があればよかったのだが、それもない。早い話が、今、自分がいなくなっても誰も困らない、というのがこたえたらしい。まさか自分がそういうことでダメージを受ける人間だとは思わなかったので戸惑った。
仕方がないので、できるだけ人に会おうとした。知っている電話番号を順に回す(当時はメールなどないから、電話しか連絡の手段はない)。最初の何日かはまだよかった。会社を辞めたというビッグニュースもあり、快く会ってくれる人がいた。しかし、友達は元々、多い方ではない。連絡を取れる人はすぐにいなくなった。そこからが大変だ。一人でうちにいると、嫌でも自分と向き合わなくてはならない。それだと不安と孤独感に押しつぶされるので、外に出る。
現実逃避のために映画を見るようになった。当時の横浜、関内あたりは映画館がたくさんあったので、上映中の映画を一本ずつ見ていけばしばらくもった。洋画を見れば、今は英語のリスニングの勉強をしているのだと自分に言い聞かせることもできた。
上映中の映画をすべて見尽くしたあと、本当の危機がやってきた。

―つづく

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