思い出すことなど(41)

翻訳に関する思い出を「思い出すことなど」と題して、色々と書いていきます。今はだいたい1994年頃の話です...

昨日も書いたが、勤めていた翻訳会社は広尾にあった。私はその頃も横浜に住んでいた。元は会社まで歩いて行けるところ、と思って住み始めたうちだったけれど、その会社を辞めてしまったので、まったく職住接近ではなくなった。とても残念だった。だが、私が結構、悪運が強いと思うのは、出勤時に利用する駅が始発駅だったということだ。つまり、必ず座れる。もちろんぎゅうぎゅうの満員電車にはなるけれど、座っていれば、さほどつらくない。寝ているうちに着いてしまう。

利用していたのは東横線の桜木町駅だった。今の東横線は横浜駅までで、そこから「みなとみらい線」になる。だが、その頃は、そんな電車ができるって噂があるよ、という程度で実態は何もなかった。私はまったくそんな噂を信じてもいなかった。今思い出すとちょっとおかしい。

考えてみると、毎日、満員電車に揺られていたのは高校生の時だけで、そのあとはずっと無縁で来ている。幸運だなと思う。高校生の時は大変だったけど。一回、人と人にはさまれ、両方の足が浮いたまま目的地まで連れて行かれたこともある。身長があまりない人ならではの出来事だ。でも、通学は通勤よりは気楽だったし、何より若くて元気だから結構平気だった。友達とバカ話をして大笑いしながら(すごい迷惑。怒られたこともあった)だと、すぐに着いてしまう。

さて、翻訳会社にいた当時は、東横線で座ったまま中目黒まで行き、そこから日比谷線に乗り換えるというのが通勤経路だった。この乗換がちょっとした問題だった。

毎朝、桜木町から電車に乗って座ると、5分もしないうちに熟睡してしまう。次の高島町くらいから記憶からないことも多かった。横浜駅なんていつ過ぎたの、っていう感じ。そして、だいたい自由が丘か学芸大学あたりで目を覚まして、「そろそろ降りなくちゃ...」と警戒態勢に入るわけだ。ただ、時には、目を開けたら「中目黒」という駅名が見えて、慌てて降りる、なんてことも。これが結構な頻度で起きた。さすがに緊張しているから起きるもんだねえ、と思っていたら、甘かった。

どうしたものか、1年に1回か2回、まったく目を覚まさず、気づくと代官山、ということがあった。急行だから代官山は通り過ぎてしまう。終点(当時は終点だった)の渋谷まで行くしかない。

渋谷まで来てしまうと、もう戻る気はしない。こういう時も私はまったく落ち着いていた。営業の時の経験が生きたのだ。外回りをしたおかげで、恵比寿と広尾はとても近いと知っていた。しかも会社は広尾と恵比寿の間くらいにあった。恵比寿は渋谷の次だ。山手線に乗ってしまえばどうってことはない。

この恵比寿駅から会社までの道のりがちょっとしたお楽しみだった。まず、いつもと違う非日常感。あと、好きだったのは、途中に懐かしの「サクマドロップス」で有名な佐久間製菓があったからだ(どうやら、サクマ式ドロップスとサクマドロップスは別ものらしいけど)。結構遠くからあまーいにおいがする。砂糖が入っていたと思われる袋が積んであるのを見ることもあった。

だいぶ様子が変わったけれど、今でもあのあたりを歩くのはとても好きだ。

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