思い出すことなど(9)

翻訳に関する思い出を「思い出すことなど」と題して、色々と書いていきます。順不同かもしれません(最初のうちは、以前、Webマガジンに書いたものの転載です)。 

前回も書いたとおり、私は書店(横浜の伊勢佐木長者町にある有隣堂本店)に行き、翻訳の報酬がどのくらいなのかを調べた。1990年のことだったと思う。そして、「今よりも楽に暮らすことができそうだ」とわかり、気持ちは固まった。

「翻訳を仕事にしよう」

そう決めたのだ。さらにもう一つ、決意をした。

「今から猛勉強をしよう」

今のままでも結構いけるとは思ったし、どうやら、自分には素質がありそうだと思ったが、どうせなら、めいっぱい努力をしてやろうと決めたのだ。素質がある上に誰にも負けないくらい努力をする。そうすれば、無敵になれるではないか。何とも単純明快だが、多分、こう思ったのには、漫画『タッチ』が影響している。「才能と努力。無敵の弟だよ」という上杉達也の台詞。才能がある人間が努力をすればすごいし、仮に才能があると思ったのが勘違いでも、めいっぱい努力をすれば悪い方には行かないだろうとも思った。決意した夜はなかなか眠れなかったのを覚えている。生まれてはじめて、

「これはいける。必ず勝てる」

と思えたからだ。できるとわかっているのにやらないのはバカだ。やるしかない。早くやりたい。時間がもったいない。そう思った。
 間もなく勉強を開始した。何をしていいのかはよくわからない。翻訳学校というのがあるのもわかったが、すぐには学費が捻出できない。独力でやるしかない。今の自分に何が足りないのかを考えてみた。明らかなのは、「英語がものすごくできるわけではない」ということだった。そりゃあ、普通の会社にいたらできる方だけれど、大したことはない。だから、そこを磨くだけでも違うだろう。まだ、結構、伸びしろはある。翻訳そのものをどう勉強すればいいかわかるまで、とにかく英語力を磨くことに専念して、時間を稼ごう。絶対に意味はあるはずだ。何をすればいいか考えて無為に時間を過ごさなくて済むし。
すぐに「ヒアリングマラソン」に申し込んだ。妙な行動かもしれない。翻訳は読んだり書いたりの仕事なのに、「聴く」の訓練をしようとしたのだ。なぜ、そうすべきと思ったのかはいまだによくわからない。ただ、なんとなく、これがいいんじゃないかと思ったのだ。それからは、ヒアリングマラソンを中心に、あとは、タイムなどの雑誌などを読む、大学受験の参考書(後に英検の参考に切り替えた)などで単語を覚え直し、文法のおさらいをする、といったことを繰り返す。そうして日々を過ごす。リスニングの時間を増やすために、まだ発売されて日も浅かったBSアンテナとチューナーも買い、CNNとBBCのニュースを毎朝、見るようにもなった。NHKの7時のニュースを日本語で見てから、副音声の英語でもう一度見る、ということもした。これは役立った。日本語で一度、見ているから、「こういう英語になるんじゃないか」となんとなく予想するのだが、だいたい予想とは大きく違う英語が聞こえてくる。「なるほど、こうでないと英語らしくないのか、逆に言えば、こういう英語を、あの日本語に訳さないと日本語らしくないのか」と思った。これが結構、今の支えになっている。いわゆる直訳と大きく違う、「大胆」と思われるような訳をする時にも、あまり躊躇をしなくなったからだ。
勉強時間を捻出するため、毎朝、早起きをした。夜、帰ってからだと疲れていて、何もしないで寝てしまう恐れがあるからだ。それは避けたい。朝、ある程度、やっていれば、夜、気が楽だ。朝は5時55分に起きる。当時はフレックスタイムが使えた。最も遅くて10時40分に出勤すればいいことになっていたので、これを最大限活かした。職場はうちから30分のところにあった。つまり6時から10時まで4時間くらい勉強できる。あとは、会社の昼休みにも勉強をした。その時間はだいたい「読む」にあてた。同僚がそばにいると気が散るので、一人離れた場所に行ってひたすら読む。家に帰ってからは、時間の許す限り、語彙や文法関連の勉強。
さすがに辛い時もあった。5時55分に起きて、頭がふらふらで、のろのろと着替える。そんな時、ラジオから流れてきた曲が心に響いた。

Hey Hey Hey Boy かっこいわるい朝だってがんばりましょう♪

SMAPの「がんばりましょう」だった。自分のことを歌ってくれているような気がした。なんだか嘘みたいな、バカみたいな話だけれど、本当にこれで救われて、またしばらくがんばることができた。本当に今も感謝しているし、時々聴いている。

—つづく

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横浜で翻訳業を営んでおります。最新訳書『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む』『脳はいいかげんにできている』『ヨーロッパ炎上』など。saku saku大好き。トミタびと村民。ベイスターズファン。
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