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[17] お久しぶりです

おひさしぶりです。
比較的穏やかな日々を過ごしている。
去年の12月、今年の1月、2月と入院していたから、家のベッドで寝て、朝起きて、決まった時間に家を出て、仕事をして、時間になったら帰宅して、ご飯を食べて、お風呂に入って、お酒を飲みながらグダグダと好きなゲーム配信を見たり、ネットフリックスを観たりして身体と心を休めて、日付が変わる頃にいつもの眠剤を飲み、睡魔のちいさな波がくるのをあまり期待せずに待ち、運がよければ夢に落ちて、翌朝にまた新しい1日がはじまるということが単純にうれしい。

健康ですか、と聞かれるとあまり自信は持てないけれど、人と比べずにわたしの過去と比較するのであれば、今は健康と言って差し支えないと思う。

もしかしたら1月に家族で行った厄払いが効いているのかもしれない。あまりに病気が重なりすぎて、『神様助けて、やばめ、やばめ (©藤井風)』という気持ちになり、家族の提案を受け入れて生まれて初めて厄払いに行った。膿が首に溜まってサッカーボールを飲み込んだような形になっていた頃だ。いつもお世話になっている心療内科の先生に「全然厄払いとか信じてないんですけど、この前行ってきました」という話をしたら、先生も「僕もあまり信じてないんだけど、新年早々転んで右手を骨折しちゃったから一昨日行きましたよ」と言われた。先生の右手はその日包帯でぐるぐる巻きになっていて、左手だけでパソコンをタイピングしていた。
診察がはじまると「え~、スナノさん、お具合はいかがですか?」といつも落ち着いたトーンで話を聞いてくれる先生で、わたしにとっては珍しく緊張せずに話せる人だ。感謝します。

神様も、薬も、人も、あまり依存しすぎないようにしている。あらゆるものとしかるべき距離をとるようにしている。今はこれでいい。怠惰かもしれないけど、必要な時間だと感じる。

先生もわたしも、厄払いの効果を信じちゃいないけれど、こうして日々を過ごせていることはありがたい。
みんなはどんな風に暮らしているのかなぁ。


 
 
小学生のころに家族でディズニーランドに行くと言って車ごと海に沈んでいった塩谷くんの、耳の形を鮮明に覚えている。
ところどころ奇妙に尖っていて、少し赤みがかっていた。特に仲がよかったわけではないが、何度か言葉を交わしたことがあった。
家におばあちゃんひとりを残して、海底に幼い息子と共に命を落とす判断を下した彼の父親と母親の心情をふと考えるときがある。クラスメイト全員でお通夜に行って、泣いているこどもや、怒りにも似た表情を浮かべる大人を見て、不思議な気持ちになった。悲しみや怒りは、死んでいった人たちとは無関係に起こるものだなぁ、と思った。親が子を殺したのか、それとも助けたのか、小学生のわたしには分からなかったし、今も分からない。
 
生きていたほうがいいのはわかる。死んだらおしまいだ。でも、おしまいにできるんだ、という気持ちもある。「自ら命を落とす行為は人の命を奪うことと同じくらい悪いことだ」という教えがある。わたしは、それがどうした、と思う。
 
車中の会話はどんなものだったのかなぁ、と考える。音楽をかけていたとしたら、みんなで歌ったりしただろうか。楽しいドライブだった瞬間がそこに1秒でも多く在ったことを願う。



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