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[19]透明だ

久しぶりに普通の日記を書きたいな、と思ったのだけど、34歳独身男性の日常を綴ることに少し抵抗がある。本当のことを書ける気がしない。わたしという人間はつまらないものだし、そのつまらなさは元々持ち合わせている凡庸さと、薬の効果によってもたらせられた側面との両方がある。毎日、統合失調所の薬でわたしの頭のネジは実生活に影響が起こらない程度に飛んでいる。夜は麻酔をかけられたようにわたしの意識はどこかへ逃げていく。色んな夢を見るけれど、そこに実在するあなたは出てこない。朝、ふわふわした意識から目覚めて、やや間を置いてわたしはこの世に戻ってくる。それからわたしがどこの誰なのかを思い出すまで、弱い視力で天井を見つめながらうーむと考える。

3月まで毎日欠かさず足を運んでいた配信に行かなくなってもう5か月が経つ。新しい音楽はほとんどそこで教えてもらっていたので、最近はそれより以前のジャムり方に戻っている。わたしのジャムり方は乱暴で、例えばSpotifyで「A」とだけ入力して検索して、Aのつくアーティストの曲をかたっぱしから聴いていく。それで「いいな」と思ったらグーグルで検索して、どんな人なのかを軽く調べる。そうすると自分の好きなアーティストと繋がりがあったり、インスパイアを受けていたり、普段聴いているバンド(Tempalay)のシンセを弾いている人(AAAMYYY)だったりすることがある。そういった偶然は楽しい。しかし、このやり方はあまりにも令和だ、と感じる。
タワレコの視聴コーナーでJamiroquaiを知ったり、雑貨屋の本棚に数枚だけ置いてあるCDの中から“ジャケットが綺麗”という理由だけでnunuのやわらかなピアノに出会ったりしていた頃に比べると趣があまりにもない。
だから、せめてもの気持ちとして、乱暴に知ったアーティストの最新アルバムを1曲目から最後まで聴くことをルールにしている。映画みたいに、小説みたいに、あるいは夢みたいに、物語を感じられるアルバムが好みだ。

音楽を作ろうかな、という気持ちに少しだけなっている。最近、詩の楽しい書き方がわかったような気がして、それも少しずつやっていきたいのだけど、もし音楽を作れる環境ができたら、シンプルに楽しくなる予感がする。首の病気をしたので、歌はあまり歌えない。でも首に負担をかけない音楽を作る方法はいくらでもあるはずだ。
意味のないものに惹かれて、それなら言葉より音楽のほうが向いている感じがして、トキメキのようなものを感じている。死ぬまでの間に、あと何曲か作ってみよう。


透明だ。あらゆる意味で今透明だ。見えなくなった右目も、空想のはざまで消した左腕も、言葉のない世界で笑ってる。わははと笑う。わははカラスはそれを見ている。
「カラスは黒を知らないんだよ」君は言う。
「おのれほど黒いものを見たことがないから黒を知らないんだ」
わたしは「ふうん」と言いながらコーヒーを飲む。
ブラックコーヒーの黒を君に見せながら「カラスはコーヒーを見たら何色だと思うのかな?」と聞く。君はなにも答えない。
ただ、くしゃっと目を細めてわははと笑う。

綺麗な水は透明だ。透明だ。あらゆる意味で今透明だ。そこから作られた蕎麦はうまい。うまいとわたしは思っている。泳ぎながらわたしは君を想っている。コーラのにおいのする君の腰を想っている。見えなくなった右目は透明だ。網膜から剥がれて自由になった。おめでとう、わたしはクラップする。あなたもクラップ、わたしもクラップ。わははと笑う。
笑い声は透明だ。あらゆる意味で今透明だ。不便はとても自由だ。
あなたの意味のわからないほど長い指先と同じくらい自由だ。
透明だ。あらゆる意味で今透明だ。

誰かの歌う声が聴こえる。
3度でハモる。5度でハモる。う~わ~。わたしもハモる。う~わ~。
暗い。右目は暗い。我に返るととても暗くて、みじめな気持ちになる。みんなが見えているのに、わたしは見えない。わははと笑う。メスを入れて、見えなくなった。勝手に剥がれた。わははと笑う。ずっと真夜中。君は笑わない。長い脚によく似合うデニムをわたしは左目で見ている。右目だけだったら君の長い脚は見えないんだよ?と左目を閉じて言う。
君はなにも答えない。
ただ、わははと笑う。それがうれしい。君の笑顔は透明だ。
今は、ただ今は、透明だ。



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