人間はスポーツを捨て「パフォーマンス」をやるべき
こんにちは。デェーマです。
パフォーマンス、してますか?
ここで言うパフォーマンスっていうのは例えば「演奏」「合唱」「演劇」「ダンス」「漫才」など。
こういう競技化がされていて、尚且つ表現であるものをパフォーマンスと、この場では呼びます。フィギアスケートやシンクロもそうです。
スポーツしてない奴は危機感持った方が良い、理由は理不尽に合ってないからだ。という言説、流行ってます。
でも俺はサッカーや野球などの「スポーツ」より、「パフォーマンス」やつこそが危機感を覚えるべきだろと、そう思うわけなんです。
パフォーマンスとスポーツの違い
俺は作り込みだと思ってます。
どういうことかを説明します。
サッカー、これは一対一のスポーツ。
つまり相手が1点も入れてこなかったら、こっちが1点入れれば勝ち。これは野球でもそう。
テニスやバレーなら、相手よりも点を取ってればいずれ勝ちになる。
つまり相対といえる。
パフォーマンスの場合は絶対。
つまり100なわけ。
全部100。
力をフルで出すことが前提。
100%の演技、100%の振り付け、100%の声をやり切ることが常に求められている。
課題曲があった時にそれに対して向き合って、細部の細部までこだわる。
対戦相手の分析や、戦略対策なんて一切存在せず、自分とただ向き合う。それがパフォーマンスというわけ。
ジョージは勝ち負けの勝負に拘っていたが、とんでもない。
本当の美しさというのは勝ち負けの世界ではない場所に宿っている。
さっき上げた全ては美しいんだよね。
音色の美しさ、演技の美しさ、構成の美しさがある。それはやはり極限まで作り込まれたからこそ滲み出るものであると、そう思うわけなんだ。神は細部に宿るということばを信じて一拍、一秒単位での調整をしてる世界。
しかもこれが評価される場においては、明確な基準が無い。これがヤバい。
どんなに自分が作り込んだとしても、納得のいかない理由で負けになることがある。
点数差なんてそこには存在せず、「ハマらなかった」があるだけ。
ホームランもハットトリックもパフォーマンスには存在しない。
その奥に見えない努力があるだけ。
これが真の理不尽なんじゃないのか。
価値が明確で無いことが理不尽であり、しかし同時にパフォーマンスの価値なんじゃないのかとも思う訳。
ただ明確に否定がなされないからこそ、そこに多様性が生まれるし新しい文化が生まれる。
つまり理不尽自体がモチベーションにもなり得る、これが許されてるのが本当にすごい。
この理不尽に触れて人として成長できる。
一個のものを磨いて磨いて磨いて磨き上げるという経験をした時に、感動した自分がいたのを覚えてます。
みなさんもして欲しい、細部に神宿そうぜ。
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