見出し画像

自己犠牲は美徳か?

2019ラグビーW杯で日本がベスト8まで進出したあと、選手たちは口々に「犠牲をともなった」という言い方をしていました。
家族を、プライベートを犠牲にして、今ここに立っている、と。
選手たちは、犠牲にしたものや犠牲になったことを悔やむでも誇るでもなく、純粋に事実の受け止めとして、観ている側に対し、単純に勝利を得たわけではないことを、そう表現しました。

宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』の中でジョバンニに、「僕はほんとうにみんなの幸せのためならば僕のからだなんか百ぺん焼いてもかまわない」と言わせています。

わたしたちは何かを得るためには、何かを犠牲にしなければならないことを知っています。
しかしそれはわたしたちの生き方のありようとして、望ましい姿でしょうか?
社会の様態として望ましい姿でしょうか?

誰かの犠牲の上に、わたしたちの生活が成り立っている。

この命題を覆すのは至難の業です。

でなければ、SDGsという言葉は出てくる余地がないはずです。

使い古された言い方をするならば、搾取された労働力(グローバルな視点で)の上に先進国(といわれる国々)の生活が存立している。
これは2022年の現代でも否定できない事実でしょう。

でなければ、コロナワクチンの分配に対するせめぎ合いは起こらないはずですし、トンガ王国の噴火で生活基盤を失った方々への支援が滞るはずはありません。

彼らは、そしてわたしたちは、ほんとうに犠牲を払わなければ、手に入れることはできないのでしょうか?
誰も犠牲にならない社会や、自己犠牲のない生活はあり得ないのでしょうか?
犠牲のない世の中を願うことはきれいごとにすぎないのでしょうか?
あなたは自己犠牲を美徳だと思いますか?

Move forward!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?