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臆病な性格で威嚇することもあります

就職して暫く経った頃、諸処の申し送りの後に、

“small-talk”は大事よ

と言われた事がある。

有無なんて無いでしょ、とする、はみ出すそんな面倒臭を隠しきらない応接。教育係でもある彼女の‘善良’を纏う配慮に、表層に首肯しながらも、名状し難い感触をなぞった。治りの遅い屈曲部の傷のように、今でも不意に思い出す。

職業作家は『言葉』の不具に挑み、戸惑い、彷徨いながら、時に先達の叡智に感心し、脱線し、振り回され、束の間ライターズハイに包まれて、冷静を取り戻すべくスカし、軽やかに外して、諦め、諦めて一度はノートパソコンを閉じ、薄明に光線を浴びるようにして、否、シニカルに‘技術屋’に撤することで、その職責を叶えようとする。言葉を使い『言葉』の埒外を“周辺視野”で捕らえ、邪を排した自動機械へと我を換装していく。

本当の事を言うのは、憚られる。それは自明で、理由なんてない。なぜ“自明“かは、本当の事だから、という撞着へと帰還する。より精緻に尽くせば、‘本当’を感する身体の地平と、“言挙げ”する刑而上に隔たりがあり、筆舌に尽くすほど、始源の輝きは喪われる。この‘崩壊’に敏感であればこそ、creationは際限の無い跳躍足り得る、と逆説を辿って往還してゆく。

‘innocence’に憧れる。その態度こそ、傲慢で、不敬で、退廃的なものはない。“small-talk”の謂に、なぜあれほど苛立ちを憶えたのか。宛先を失った、かつて宛先のあったもの。そんな言い方しか、もう出来ない。パラフレーズすれば、“同じ釜の飯を食う”のバタ臭いVer.で、類例に、“煙草吸わないとSEには不向き”や、“外務省入るにはアメフト部”、“原宿のラフォーレ裏にジャニーズ寮”等がある。つまり“京の昼寝”に類する、‘feasibility-study’≒生活の事実性にコミットせよ。

『innocenceへの跳躍』を後ろ支えする、生活の事実性。それは、切り刻んだオクラと昆布を三杯酢に漬けたり、アラと手羽から出汁をひいた薄い塩味のスゥプに大根を煮たり、ご近所さんに株分けしてもらった“差し穂”から紫蘇を育てたり、梅の実を叩き落として瓶詰めし氷砂糖の重みと浸透圧でシロップ醸成したり、うん食べることばかり。

ただそんな、ネバネバのオクラ昆布を、胃に優しい大根の煮物を、大事に育てた紫蘇を、いい感じに浸かった梅シロップを、霹靂一閃のうちに忘却し、腐り果てたそれらを、“嗚呼、勿体ない”と云い乍、『“small-talk”が大事よ”』に、ぶちまける日が来るのを、心の奥襞に願わんとす。

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