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『泣いた赤鬼』における奇跡とは

俺ガイル完(3期)を観ていて気付いたことがある。

新シリーズが始まり、冒頭見始めた時(1話~3話あたり)、ちょっと時期を外した感というか、なんとなく皆で一生懸命『俺ガイル』の世界観をなぞっている、という印象を強く受けた。無論、コロナ禍の影響で放送時期が延期になり、期待と現実のギャップで悪しく働いた、というのもある。(裏はとれていないが)コロナ禍関連の影響で声優さん達の収録方式が変わり、掛け合いのグルーヴ感が著しく削がれている、というのもあるのかも知れない。

綺麗なアルトの、『妙齢』の女性の声で独白が続く。言い方を変えれば、高校生の女の子にはとても聞こえない。演技やキャスティングに対するディスというより、なにかもっと、合理的な理由があるような気がしてならない。そう思っている矢先、話が途端にドライブし始め、三期開幕のダウナーでグダグダな説明エピソード群は、もしかしたら『前振り』だったのかも知れない、と思い始めている。

"戦闘シーンの無いエヴァンゲリオン"こと『俺ガイル』。"補助線"を引くため、今一度エヴァを参照してみよう。一言でいえば、エヴァという話は、作中の14歳、中二のシンジ君世代のみならず、リツコやミサトさん、あるいはフユツキらミドルエイジクライシス(第二思春期=更年期障害)世代を射程する話でもある。それはつまり、シンジ君らをテコにして、(俺ガイルにおいては比企谷八幡に『新世界の神』になってもらうことで)画面の向こうにいるミドル世代にメッセージする話であるように思うのだ。「俺ガイル二期」で突如挿入される"折本かおり"のエピソードは、作品通じるメタメッセージになっている。作者として、監督として、"不自然さ"を極力排除するカタチでなんとかあのエピソードを織り込んだのは、その『必要』を悟ったからだろう。

俺ガイル含むラノベ群は、どの数字を切り取るかにもよるが、実のところ『ミドルエイジ』がメインターゲットの市場である。ついでに言えば年端のいかないアイドル群を愛でる文化(『カワイイ』の語源は"面映ゆい"=共感性羞恥)もその地平にあり、マーケティング的に言えば、分母を沢山揃えれば好みのタイプが一人くらいいるだろう、という『企画モノAV』モデルの商法といえる。"止まった時計は二度正確な時を刻む"(©秋元康)。思えば、(デリダ的)不安神経症にかられる層が、『癒やし』を求めて"萌え"に行き着く、というのが『動物化するポストモダン~データベースanimals~』(©東浩紀)のアウトラインだった。註釈を加えれば、"動物化"という謂は、(巷間の理解と違い)それほど否定的に使われているわけではない。或いは否定的に捉えるからこそ『間違えて』いくのであり、我々は動物であることから免れ得ない。これは後に指摘する"共依存"という言葉のミスリードにも当てはまる。

"中二病"という言葉の当初は、(今でいう『中二病』的振る舞いとされる)ティーン時代における"黒歴史"を諧謔(自虐)して笑いに転換するのではなく、「大人になってからもベタにそれらを馬鹿にしてしまう態度」を指して、いわば「中二病」と呼んでいた。そもそもが『中年』に掛かる言葉であり、そんな『マウンティング・ピーターパン』(略して"マンピー")に対しアイロニカルにマーカーを引いたのが始まりだった。要は、『中二病』と言い募る、その心性もまた『中二病』であり、その意味で『材木座義輝』は、"小町"(=真実を映す鏡)言うように、ただの"中二"。"Wendy"="いろはす"との絡みが一切無いのは、材木座(=ピーターパン)は大人になれないというより、物語が破綻しないためにも、大人になってはいけないのだ。或いはそれは、もうひとつの『大人のカタチ』なのかも知れない。

エヴァ、ガイル、両作品に共通する『残酷』というワードの連発(『"公的領域"で残酷さを減ずる』ことを眼差す"リベラルアイロニズム"への布石)。そして"雪ノ下陽乃"の言う『共依存』という今日的な時代錯誤("Out of date")。エンディングテーマの『レトロ※』な"歌謡曲調"のメロディーラインとアレンジメント。つい思い出して、懐かしのリンドバーグ『探してーたダーヤモンドー♪』を口ずさんでしまった。

(※俺ガイル完ED『ダイヤモンドの純度』、リンドバーグ『GANBAらなくちゃね!』、コード進行もほぼ同じ‥)
(※レトロ…vintage=ワインエイジ、deadstock=死に在庫=新古品、と違い、レトロには"古さを模したもの"を含意する。"レトロスペクティヴ"の略)

つまるところ、このどうしようもなくまとわりつく"古くささ"とは、当初的な意味における"中二病"そのものであり、陽乃の、平塚センセの、そして視聴するミドルエイジ達の「思い残し」、すなわち彼ら彼女らの抱える"中二病"を、「折本かおり」のエピソードよろしく、『やっと終わらせることが出来る』かどうかの"前フリ"なのだ。『俺ガイル』の出自からして「僕は友達が少ない」の"公式パロディ"みたいなところがあり、そもそもの構えとして徹底して(=いわばパフォーマティヴに)アイロニカルであることを旨としている。

三期の冒頭1話2話で語られるのは、妹世代の"健全さ"だった。まだ幼いゆえに自意識の撞着が無い、というより、俺ガイルにおいて上世代にいくほど、幼さや、中二病感が鼻についてしまうのはわたしだけだろうか。後に記述する、(ファシリテーターを引き受ける)"いろはす"然り、"下の世代であるほど健全"という"傾き"(=メタメッセージ)の上に『俺ガイル』はconstructionしている。

因みに、冒頭のエヴァ登場人物の並びから『ゲンドウ』を外したのには理由がある。リアタイ視聴当時から思っていたことだが、ゲンドウというのはホントにいるのか?という疑問である。(=『玄冬』を模した言い回しと推察)宮沢賢治のいうカムパネルラ、要はメタフィジックな何か、譬えるなら、ニーチェのいう『超人』とは、カリタス(隣人愛)の否定というより、『超人』を指向することで計算可能領域が拡がる、の謂であり、オリジナル(イエスキリスト)を参照して今一度キリスト教をリブートした、というのがその本懐にあたる。そしてこの図式はまんまゲンドウにもあて嵌まる。つまりは意志する力ではなく、力への意志、を形容する表象であり、概念をアレゴリカルに寓したものがゲンドウであろう。これが「意志する力」になってしまうと、意志する力が大切です、という校長先生のお説教になってしまう。校長先生に限らずお説教が機能しないのは、『意志することが出来る』者だけが意志出来る、というトートロジーにはまり込み、端的にアウトリーチしないのだ。『超人』概念はアドラー(∴嫌われる勇気)に接続し、また一連のジェイソン・ボーンシリーズもこの"フラッシュアイデア"に基づいてると思われる。抽象度を上げて言えば、"老いては子に従え"の謂や、革命前夜譚である『銀河鉄道の夜』も『超人』のアナロジーといえる。仏教でいえば、既存勢力(最澄)を退けて密教(小乗)に回帰した、空海の佇まいであり、本願に棹指す親鸞の構えといえる。丁度"オイディプス王の悲劇"を逆位相にしたものが、『超人』というconceptといえる。

§  §  §

倉木麻衣を、宇多田ヒカルに関連付けて理解する(二番煎じ的解釈)のが、今となっては完全に" 間違い"と言えるように、『機動戦艦ナデシコ』を『新世紀エヴァンゲリオン』に紐付けて解すのは"間違い"だと思っている。当時、"真なる意味"で『新世紀』の到来を告げたのは、エヴァの"パロディ"を色濃く残すナデシコだったし、そのコロラリーは今でも確実に続いている。つまりは俺ガイルをエヴァの文脈で解すのは"間違い"であり、補助線を引くなら寧ろナデシコ、或いは同時代性や、似た出自を持つ『リゼロ』こそ多くの視座を提供する。

リゼロの『新規性』は現実→異世界の順ではなく、異世界ありきの現実世界、の順位にある。加えてメインヒロインが世間的に(=視聴する層に)ほぼ無視されている、というのも興味深い。遡ればそれは、村上龍「テニスボーイの憂鬱」における"結論"や、「機動戦艦ナデシコ」挿入歌ホシノ・ルリ「あなたの一番になりたい」をどこか彷彿とさせる。「俺ガイル二期」における『電子の妖精』オマージュが、ナデシコの通奏低音である『"運命"とは順番である』を暗喩しているとすれば、『選ばれない雪乃ちゃん』へのサジェストになってくる。(ついでに言えば『冬之花』(ナデシコ挿入歌)と、俺ガイル三期OPやなぎなぎ『芽ぐみの雨』の"シンクロ率の高さ"も気になっている。)

リゼロの元ネタのひとつであろう、メルヴィルの『白鯨』、正確には"白鯨"ことディックの子細な性器描写とは、描写そのものに『意味』はなく、過剰な装飾="無意味さ"を著す記号であり、"白鯨"とは、つまるところ『我々の営む社会=とくに意味を持たない生活そのもの(="生活の事実性")』を表象する寓意となっている。そして、アメリカという土地柄を踏まえると"ホワイトウォッシュ"の告発、更に言えば子細な性器描写には、エスニッククレンジングの寓意を読み取れる。『白鯨』単体では分かり難いこのアイロニーは、同氏の短編「書写人バートルビ」を読むと直感する。

「書写人バートルビ」、映画『joker』の元ネタともいえるこの作品は、国家資本主義"フランケンシュタイン"中国に対する『トランプ大統領』の謂であり、英国アングリカンチャーチ(不倫の末、離婚したいというオヤジ)に対する米国の祖"ピューリタン"("潔癖"を振りかざし、反目するコドモ)の謂である。「書写人」とは、模倣、カーボンコピーを換喩する。勘違いしてはいけないのは、トランプがアメリカの大統領になったのではなく、アメリカがトランプを大統領にしているのだ。トランプを引きずり下ろしても、結局はまた別の『トランプ』が大統領になるだけで、トランプを属人的な理由でフィンガーポイントしても、あまり意味は無い。『綾波レイ』はアンパンマンのように後ろにたくさん控えて居るのだ。

© 岡田斗司夫)へのリアルな移行を知らせたのが、『堕落論』≒『joker』だったのだ。

つまりメルヴィルのいう『白鯨』とは、押井守版『攻殻機動隊Ghost in the shell』における『"実存"概念など所詮システムの分泌物』を擬らえるものであり、これは、リゼロにおける白鯨が『忘却』(="アイデンティティ"という名の『フィクション』)を形容していることからも推察できる。『白鯨』を倒してしまったスバル御一行にとって、もはや"日常"は存在しない。エキドナを取り巻く"てふてふ"は『胡蝶の夢』を暗示する。つまり、異世界の憧憬として現実があるのか、現実の白昼夢に異世界を視るのか、解らなくなっていく。原作長月さんの年齢も性別も知らないが、日渡早紀さんの一連作品、「ぼくの地球を守って」、その後の「未来のうてな」に強く影響を受けてるように思う。エキドナの"てふてふ"が、せめて"butterfly effect"のダブルミーニングであればいいのに、と思う。そしたら"帰りたい"と思える『未来』も、ifのどこかにあるかも知れない。


(memo,辻村深月『かがみの孤城』のスバルと、リゼロ菜月昴の類似性)

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"異世界"から俺ガイルに戻る。そして、結論へ。

繰り返すが『俺ガイル』はエヴァではない。"いろはす"(=『4月生まれのバイブス』)はエヴァにはいない。"いろはす"がいないからエヴァはリブートするし、これからも『エンドレスエイト』の内側でリブートし続ける。永遠なる虚飾、もしくは"金のなる木"、それがエヴァだ。

『泣いた赤鬼』における奇跡(=優しいウソ)は、"赤鬼"だと思っている。青鬼の"狂言廻し"を眼の前にして、通常の"赤鬼"は梯子を外してしまう。常に何らかの理由をつけて(=認知的整合化)、わたしは悪く無い、関係無い、と言い募る。それが人の世であり、蔓延する"自己責任論"の本質だ。でも、"赤鬼"は梯子を外すことなく、青鬼を最後まで信じ続ける。青鬼がウソなのではない。赤鬼がウソ(=創作)なのだ。だからこそ、彼等は、ヒトの審級(人倫界)に非ず、鬼(overload)の審級に在る。そして青鬼もまた、赤鬼が裏切ることを予期していても、やっぱり同じことをするのだろう。つまり『泣いた赤鬼』とは、「わたしを三度、知らないと言う」と弟子達に預託して殉じたイエス・キリストを翻案した寓話だ。だからこそ、青鬼はいつまでも尊く、赤鬼はどこまでも哀しい。これは、更に翻案して言えば、青鬼により青年期の終わりを告げられる、赤鬼の通過儀礼(アイロニーを内化し他者に拓ける)の物語と言えよう。『い・ろ・は・す』は"青鬼"だ。それは無論"レム"であり、"青ブタ"でもある。

一色いろはの尽力で、雪ノ下雪乃は覚醒する。磔刑に処されるキリストと、後に翻身する弟子達の姿を、重ねて見る。そう、いつだって物語の終わりを告げるのは、おしゃまな女の子。

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『やがて君になる』(雪ノ下雪乃×いろはす/槙聖司≒比企谷八幡)や、『聲の形』(雪ノ下雪乃+由比ヶ浜由衣=西宮硝子/石田将也≒比企谷八幡)も、俺ガイルを読み解く上で有効な補助線を提供する(セカンダリという意味ではない)。何よりも俺ガイルにとって、重要なモチーフはギリシャ神話『パリスの審判』にあるだろう。この寓話は『リゼロ』を貫く通奏低音としても機能する。

無論、ここでいう"パリス"とは、元TBSアナウンサー有馬隼人‥ではなく、カレカノにおける有馬総一郎…でもなく、『葉山隼人』の謂であり、裏で糸引くゼウスこそ、戯作者"渡航"と重なっていく。

リゼロでは『りんご(=リンガ)』を投げ入れるその人こそ『嫉妬の魔女』であり、りんご(=王位戦)は作品に通底するメタファーとなる。"嫉妬の魔女"とは『スコトーマ』であり、この世の『宿痾』の謂そのものだろう。我々の世界は、言うまでもなく"嫉妬"で駆動している。

では比企谷八幡は?

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