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信じる、と“信じてる”(「彼岸花が咲く島」前編)

まだ長い文章を読み慣れていない頃、筆者のもつ“文体の癖”に阻まれ頓挫する、という内容以前の“選択”がままあった。漫画雑誌を読む際の、絵柄がどうにも受け付けずに後回しにしていく、そんな感覚に似ている。

一方で、必ずしも書籍類に限らないが、“積ん読”状態だったものをふと手に取り、“わたしは今、まさにこれが読みたかったのだ”と、時空を超えて自分にグッジョブする感じを、幾度と無く経験している。

今となっては、自分自身の“手懐け方”に慣れてしまい、開帳当初違和感があっても、こういうケースはこう、と自動的に傾向と対策をしていく、『読む体力』と、『読み下しの手練手管』が圧倒的に増えたように思う。“今じゃないな”と後回しにすることはあっても、商業的な選抜を潜り抜けた“一軍”で、どうにも読み続けるのが辛い、と天を仰ぐケースはトンと無くなった。無論ここには、無意識下に回避している、暗黙の排斥と、加えて、コンテンツ提供周りの洗練やマッチング、アクセシビリティを含んだ‘optimized’の向上、というそれぞれに発展がある。

文法の精度や文体の如才なさ、漫画における速写や構図の卓抜、或いはCGゲームにおけるgraphicsの流麗さやinterfaceまわりの官能と興趣。これらは、いわば‘God made solids’に対置する(接続詞butで継ぐ)“surfaces were the work of the Devil”でしかない。若しくは‘work of the Devil’であればこそ、埋没や無我とは違う、目を開けたまま息をしたまま溺れていく、忘我の境地こそ覚醒であらんとする読書体験が、横たわっているのかも知れない。

先頃発表(2021上半期)のあった、芥川龍之介賞短編「彼岸花が咲く島©李 琴峰©文藝春秋」を読んだ。細かく分析的に評していく、というより、読後の印象を“半乾き”のままでいいから綴っておきたい。そんなことを思わせてくれる作品だった。謎解きの答え合わせ、とか、共感を分かち合う、とは趣を違える、ある意味とても‘文学らしい’文学体験。わたしの言葉でいえば、『穴文学』から『人形姫code』へ、間に“転轍”を挟んで重心移動していく、幻灯機に照らされる内的な“自動写真”。

一切の情趣無く、“電気羊の夢をみないアンドロイド”に言わせるなら、深淵〔abyss〕を『‘rendering pipeline’を通じgraphics生成し、effect効果に淫すべく許す限りのshader(陰影)処理を施して、試走を繰り返し、納期いっぱいまでbug-fix』したclosedの“オープンワールド”を、純文学界隈では“島”〔箱庭〕と呼ぶ。もしこれら『島』の源流を文学界隈に辿るとすれば、志賀直哉の「城の崎にて」が呼び出されるように思う。

散りばむ文学的意匠を抜き出し、“マーカー”を引くのは出来るだけ避ける/避けたいが、冒頭に言及される主人公格の名状が、当初『霧実〔fog〕』だったものを、『宇実〔solid〕』に換装していくくだりには、作者の紛う方なき“言明”の姿勢と、寄る辺ない者の覚悟が、篭められているように思う。

全体通じ女性性、とりわけ身体性〔sexual〕を寓意する意匠に溢れているものの、彼の作品を便宜的に、前半後半に分けた場合、前半部分において強調される『形骸の美』の有意味性を、膨らませて思うところを書いていきたい。

作品内にて、フレーミングされる限定領域『島』において、その物語端緒から『言語』の自明性を崩す営みが展開される。今書いているこの文章においても、「日本語」の文中に、半ば嵌め殺すようにして、暫し英語のidiomやsentenceが挿入し、加えカタカナも不断に混じっている。そんな日本語の、「日常的な営み」を逆照射するように、『島』に流通する日常会話には、“型抜き”のようにくり抜かれた『日本語』が、逐語・場当たり的に挿入されている。後背にある文脈(文法)は『島』に流通する言語体系のままにあり、かつて漢文にレ点を打って邦訳に読み下していったように、作品内では『日本語』が分解され、換骨奪胎されていく。当たり前に流通する『日常』の自明性を、形而上に崩しつつ、‘re-structuring’の過程に生ずる相克を、批判論考〔critique〕を開陳するように、論文に付帯する抄録〔abstract〕様にまとめ、冒頭にて提出していく。

外国人が日本語を学習する際等に指摘される、記号的に『女性』を顕す「~だわ」という言い回し。日常的な光景においては、もはや翻訳や歌詞やfictionやゲイコミュにしか存在しないオンナコトバ。作中にて『女語』と名状する、現状の日本語と近似な言語体系は、“ひらがな男子”『紀貫之』への‘hommage’とともに、存在しないのに存在し続ける、“女性限定言葉”への強烈な当て擦りのように思える。「標準語」を『男語』と輪郭せしめることのない、片翼に見る日常性への埋没を、言語の未来像を措定することで明るみにせんとする。リージョンに収斂しつつある世界状況は、この作品で思弁的に幻灯される“自動写真”と、本質的な部分では相違なくなっているのかも知れない。

(つづきへ)

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