"超音速"の向こう側

"fox capture plan"を聴いていると嗜虐的な気分になる。

"才能"による選抜、という当たり前過ぎる現実を、眼前にすると言葉は向こうに押し黙る。そうしたlivenessに晒され、間断無く続く過剰なflowに埋まってしまうと、"音楽"さえあれば宗教は要らないのではないか、とぼんやり思ってしまう。音波に浮遊し、身体の輪郭が曖昧になる。つまり眩暈や酩酊を賦活する"祭"(マツリ)とは、"政"(マツリゴト)の裏返しにある関係で、"祭"を前提する宗教と、"政"による統治は、古来よりsetのものとされている。

『子供』は、単数で"複数形"とされる。
"野郎供!!"につく"供"の字は、複数形を顕す字義で、つまり"子供"とは、childでもあり、childrenでもある。とは言え、"コドモハセケンノタカラデス"と直截にはならず、むしろそうしたものの真反対ともいえる、中世"日本"の姿がここに横たわっている。

個の誕生日を認識するようになったのは、明治以降の、正確には近代軍備化要請に伴う、宗教の世俗化と、個の分割統治(名簿化)以降であり、それ以前は皆、正月を跨ぐと一斉に齢をとる、"数え年"の風習であった。比較が無いので、retro-nimである"数え年"という「言葉」自体も流通していない。年を取るとは、歴年の"累"と同一のものとされる。細かく言うと、数の概念がどれほど定着していたかは留意が必要であり、仏教では数珠、Catholicではrosárioとする祭具は、字義通りcount-upを補助する道具で、念仏・祈りを、大珠がおのおの一周するまで繰り返す。また、仏教の49日とは、内訳7×7であり(9="苦"を避ける)、奇数に寄りかかる"日本"においてmaximumに相当する。つまり宗教指導者=intelligentsiaは、"数"を理解していたものの、末端にまで広く浸透していたかどうかはかなり疑わしい。また、retro-nimの似た話では、同明治期以前までは、"自明"の謂である『自然=ジネン(exp.自然薯=ジネンジョ)』は在ったが、今で言うところの、"人為"に対す"自然"という二項対立図式は存在しなかった、らしい。

農閑期に子育てをする、つまり身重の状態と、農生産への従事期間とをずらす必要性から、"数え"の風習は始まっている。新嘗祭(五穀豊穣の感謝を捧ぐ)と、その裏返しにある夜這いの風習とは、即ち"birth-control"を目差しており、余所者でない、つまり"村のタネ"であれば"誰"でも良く、同時に個の概念を埋没する。生得的や事故により、子を為すことの出来ないもののstigma性を、免除・軽減する機能を包含する。子を為しながらも幼くして亡くした者や、余剰能力分は"乳母"となり、ムラの"子供"を育てるために尽力する。集団がひとつの単位であり、個の誕生日という概念、更には"個人"という概念そのものが未明で、これらは極めて最近出来た、"人為"の賜物とされている。

従って、"夜這い"の風習だけを切り取ったり、中世期に"個の才"を賦活しdramaを駆動させるのは、時代背景を『カキワリの舞台装置』相当と見做しており、それらはacademy映画『LA.LA..LAND』にも通じる、「現実から遊離した精神状態」を露わす"借景"として、恣意的に利用するため呼び出される、鍵格好付きの『時代背景』となる。これは『宇宙』や『異世界』にも見られる、いわば広義のセカイ系と呼ばれる作品群に特徴的な傾向だが、これらが意識的に前傾、styleが膾炙するのは、'85『BANANA FISH(©吉田秋生©小学館)』とされる。その翌年には『ぼくの地球を守って(©日渡早紀©白泉社)』の連載が始まり、少女漫画界は伝統的な"恋愛教信仰"と、広義セカイ系とする"花ゆめ信仰"とに、おおむねregionを分かつ"二大勢力(※)"を形成していく。一応言っておくと、"ぼく地球"とは、ecology啓蒙思想ではなく、「"ぼくの"地球」の側に重心があり、要は"地球を守る"という大言を、さも自分の使命と錯視する、"勘違い男"の慰撫史観といえる。(※「簡便法」による"二項分布")

『BANANA FISH』評をボンヤリと眺めていると、完全に"わかっている"人と、前提を全く踏まえない人とに、二極するのが見て取れる。これはAmazon primeにて配信される、野崎まど原作『バビロン』にも通じる話で、野暮を承知で敷衍すれば、「バビロン」とは"自殺法"というflameを借り受ける、"選択的夫婦別氏制度"の暗喩に他ならない。つまりは名前を失うは自死するに等しいのmessage。序盤、拐かしのため埋め込まれるモブ女性たちを除き、主人公"曲世愛"に使嗾、"自死"(=籠絡)するのは皆「男性」であり、序盤のモブ女性たちもまた、男性社会の腰巾着として埋没する"共犯者"として、糾弾、告発されている(整合性がとられている)。キリスト教を下地にしている"らしく" 、この連載で頻出する『使徒ルカ』は、この作品内では"parité"の発祥、France大統領の座に収まっている。

作品内に擬らえ、『なぜ自殺してはいけないか』に真っ当に応えると、『なぜ自殺"しなきゃ"いけないのか』が"正しい対処法"となる。そう反問出来ない時点で何らかの疑い、つまり疲労の蓄積や、睡眠、運動、栄養、日照不足、精神疾患の類を点検した方がいい。そして、作中『なぜ自殺しなきゃいけないんだ』と明言するのは、France大統領"ルカ"であり、"曲世"ことfeministに対する『正しい保守の構え』を見せるのは、キリスト教のspin Dr.こと、またしても"使徒ルカ"となっている。

「バビロン」が少し厄介なのは(失礼)、数多ある新興宗教のひとつであった、原初キリスト教がそうであったように、既存価値観(ユダヤ教)を反転する構えを有すセカイになっている(≒『曲』がった『世』界)。つまり白は黒、"正しい"は"間違い"とする、『クレタ人は嘘つき』のような"hi con-text"が、作品貫き通している。粛清される『瀬黒捜査官』は、順接に均せば"白"であり、その死因が"自死"ではないことから、『女たちのジハード』で直木賞を受賞後、"ジェンダーおばさん"(注:氏のエッセイ内の言葉引用)として"scape-goat"に奉られる、"篠田節子"氏のような贄(ニエ)を、ironicallyに表象するものといえる。justisとgoodnessを併せ持つ、『法と秩序』つまりは"男性社会"表象こと『正崎善』は…なんとなく"価値判断"をしないまま、最後まで致る(原作未読)。

『BANANA FISH』における虐待描写は、"勝てなかった戦争"こと、今のterrorismにも通ず、泥沼化するベトナム戦争のDDRの困難さを"借景"にする。ここには、連載当時は切実に機能した、しかしともすれば「親が子に嫌いな人参を無理に食べさせる」程度にも読めてしまう、"ambivalence"を含んでいる。本人が、切実であればあるほど絵空事になってしまう、"尾崎豊のparadox" ≒『セカイ系の走り』が発生する。『戦争』はとっくに終わり、"安心安全便利快適"な暮らしをしているのに、なぜそんな深刻なフリしてるのか。終盤展開する、地下鉄構内を舞台にする上部構造/下部構造に露わる"寓意"、そして主人公アッシュ・リンクスの死に象徴する、"青年期"≒paradigmの終わり。程なくして「構造主義」は終わり、spectrumの同一地平に皆投げ込まれる、super-flat(※)が待ち受ける。重厚長大で時代がかっているものの、或いは、時代がかれば掛かるほど、裏腹に軽妙浅薄さが募る、両作品に通ずる「現実から遊離した精神状態」。祭の跡の泡沫、音波に揺蕩い、輪郭線が曖昧になる『LA.LA..LAND』は、今も続いている。

(※)『意識/無意識』の"trauma語り"は茶番であり、要は"内分泌系(両作品内に登場する薬物によるtuning≒"Opioid"に通じる)"による拐かしに過ぎない。"traumaなど存在しない"(Adler)∴『筋トレ』せよ(←今ここ)。

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