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『彼岸花の咲く島』には、ならない(「彼岸花が咲く島」中編)

日本語は‘monologue’に寄った言語と、いわれることがある。

“ありがとう”を遡ると、‘有り難い’を参照し、更に敷衍していくと『(眼前に)有り得ないことが発生した』という、感嘆を露わす“独りごち”、に行き着くことになる。

無論、言葉は入れ物に過ぎず、任意に割り当てていく“連想配列”のように、必ずしも形骸(包み箱)と中身(本来的な謂)が一致している必要がない。仲間内で伝わる“符合”(exp.「先生」につけるあだ名等)に分かり易く、共有する相手に伝われば、その機能を果たしていく。ここには、その“符合”の有意味性が伝わる相手こそ、‘わたしたち’の仲間である、という反実仮想が成り立っていく。

『形骸と中身が一致している必要がない』ことを、“逆説的”に拡く説いたのが、マックス・ウェーバーの論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」。アカデミシャンや社会科学系学徒の多くは、その言わんとする“本懐”を遂げるために、愛と諧謔を以て『プロ倫』と呼称する。これを、日本文化に割り当てれば、わたし達は一般に広く、食事の前に“いただきます”と言う。けれど、それを唱える度に、心中で『ケダモノの命を屠って、その命を頂きます』と水路付けていくものではない。或いは、子に対する躾として、“「いただきます」言いなさい”と命ずるように、あくまでもその作法にこそ有意義性が宿っている。

冒頭の、“ありがとう”に戻る。『ありがとう』の源流を辿れば、それは確かに“独り言”に近い始原にあるのかも知れない。だが、意思疎通を遂げるための、相互補完的なコミュニケーションにおいて、“Thank you for your kindness.”のニュアンスで、今は使う/使われている人が多い。加えここには、文脈共有しているものは仲間である、という“形骸に拠って立つ機能”を、メタメッセージに見て取ることが出来る。

先の(2021上半期)芥川龍之介賞作品「彼岸花が咲く島」は、『彼岸花咲く島』ではない。これは作中にて言及されていく、媒介者〔mediator〕役割にある“游娜”と、両義的存在〔ambivalence〕を託されていく“拓慈”による、主人公格“宇実”の眼前にて展開されゆく

「じゃ、拓慈は〈ニライカナイ〉を信じるの?信じないの?」
と、游娜は不服そうに訊き返した。

「ここは『信じてるの?信じてないの?』と訊いた方が自然だよ」
と拓慈が訂正を入れた。

の一節〔sequence〕と、感覚的な地平を共有する。

わたしは母語を日本語とするnative話者に当たり、そして多分‘native’だからこそ、このセリフの前でしばし立ち止まってしまった。無礼を承知で、類例を以て解釈に当たれば、『愛してる』を参考に両者を比較、その方がより少しだけ分かり易いように思う。

“愛する”と、“愛してる”。ほぼ同じ意味合いなのに、両者にとってその違いを決定せしめるのは、そこに相手が、想定されているか/いないか、に拠るものと分流する。つまり“愛する”は、かなりのところを『独り言』に拠って立つmonologue的有り様で、他方、“愛してる”は、先の“~ for your ○○”と地平を共有する、相互補完的コミュニケーションの連続性、つまりdialogue的な有り様において発するもの、と解すことが出来る。わたし、と、わたしたち、の差がここにはある。

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