Ultra"ZONE"
わたしは長らく、直感を論理が"補完する"ものだとばかり、思っていた。直感に反する事柄に、論理により迂回することで、"救済"されて来た経験が多々あるからだ。だが、その論理を提供するのもまた直感なのだ。
designer cluster=『箱庭の内側の"最適解"』=communication
artist cluster=『箱庭そのもの』=relationship
communicationと、relationshipの、時に捻れる"メゾ領域"で
地域に開放される、小学生の自由課題(=自由研究)作品群のさなか、そのひとつに強く惹かれた。3つの『香り』を"幾何"寄りの図絵で示したもので、感動するものの上手く言葉に出来なかった。慣用的な謂である『不射の射』を、わたしは長らく"守株待兎"や、"漁夫の利"(=金持ち喧嘩せず=武器商人たれ)のanalogyと思っていた。いわば"作為的不作為"に敏感たれ、程度の謂と見積もっていた。
『香り』と『図絵』の"共感覚"は『箱庭』を架橋する。それは共感を乗り越えた、"偶発性"や"共時性"を刺激してゆく。それぞれの"内なる最適化"を越え、『箱庭』そのものを揺るがす、メタ言及を見て取れるのだ。究極的な詐欺師は、自分を詐欺師とは思っていない。大量殺人犯は"善きこと"をしてると、最後に言う。コミュニケーション巧者は、巧みさゆえに孤独を深め、孤独感に駆動され、更にコミニカティヴに洗練する。"予言"と"預言"は"同じもの(=ジャーゴン)"で使い分けることはしない。占い師は『洗脳』しているのではなく、"口寄せ"してるだけ。河内遙『関根くんの恋』で、"Estimation"という概念が開陳される。『業』とも訳されるそれは"作意"そのものを否定する。マジシャンは、トランプで"マジック"をしているのではない。52枚のcardの"位置"を、指が勝手に把持している。だから、そこに"作意"は無い。誰も"騙して"いない。そう、つまり"不射の射"。
"射の射"が作為的不作為(=cosmosの中のchaotic=悪い人は"悪いこと"をしてる)、つまりは"人為(=positive)"の謂なら、"不射の射"は不作為的作意(=chaosの中のcosmetic="悪い人"などいない)、人為でないもの(=negative)の謂といえる。"射の射"はいわば、"ZONE"の境地をいうのだろう。"不射の射"は、『~じゃない方』としてしか記述出来ない。
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