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枢〔クルル〕

余寒に張り詰めていた強張りも解れ、ふたばの甲拆囂しき、薫風に巡りて現る萠の嫩芽を、瞬きの借景に行き過ぎる。もはや温暖とは言い難い猛夏の候、無尽に注ぐ赫々を執拗に避けながら、其れらは衆生の淫す享楽にも似て、夜半の寝覚に、熱に当てらるるを知る。紫幹翠葉に発せられる怨嗟の響きを、確からしく感じながら、常用のソレとは違う、少し離れた路線の駅へと歩く。吝かにせず、taxiを呼べば良かった、と瞬目に悔いる。

抑揚のない陽射しは一帯の凹凸を奪い、薄まった気層に拡がる白飛びした輪郭は、森羅にあろう遠近感覚すら麻痺させる。この熱波に白惚けた世界で、陽の高さに増して濃くなるはずの蔭翳は、幾相より反射する光感に薄れ、日面に模糊たる現り様を呈している。死んだ珊瑚の彩りが徐々に喪われていくように、陽の猛勢に反目して、辺り一面を死の咳嗽が覆い尽くしぬる錯覚に襲われる。人や動物に於いても、強硬過ぎる力動を以ては、周りを精神に蝕んでゆく。おでこを撫で上がる不意の科戸の風が吹き、面を上げて辺りを見渡し、往時より日翳が少なくなった、と再再の臆想に耽る。

往昔、候の移ろいは今ほどに杜撰でなく、少なくとも彼方此方で、紫陽花と向日葵が横並びに咲く珍妙さから距離があった。幼少の時分には、葉脈鮮やかな紫翠の彩りを、玻璃瓶の鋭角を濯いだ破片を、飽くることなく眺め、また憚り知らぬ幼さに、“七宝”を集められるだけ集めていた。幼き帝国に於いては、醜穢を沙汰する、厳やかたる恋闕にひれ伏していて、股肱が仰せ遣った儀式を執するが如く、残酷に過ぎるほどの選分けは途次に躊躇なく、刻々と進められていた。

物語に諸相を映えて解すのは、往相還相を行き来せんとする回向の営みであり、人倫を一つの図象に結び付ける、専らに紡いでゆく秩序の糸であろう。然し之は、因果を逆さに辿っている。人倫の諸相を物語に昇し綴っている、が正なる因果で、常に既に、作家とは一を百にせむ業腹に他ならない。

幼少の時分には、唯、意味もなく、蒐集せんが為に集める、無碍で自在な営みに耽っていた、否や、無慙無愧、耽っていられた。そこでは蟲の頭をもいだり、歪な団栗や病葉を踏み潰し、清く潔い臆見とはウラハラに、傲岸にすら気付かない邪無き現が拡がっていた。然るに、愊憶に没すことなく、無類なごっこ遊びに興せしめたのは、起こり無き太刀筋、言挙げ無き煽動にも似た、瑞光無き駈り立て、であった。

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