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水田に揺蕩う「カルガモ」は、今際に何を見るか

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を初めて観たとき、この作品をどう回収すればいいのか、よくわからなかった。"感動ポルノ"的、"世界名作劇場"的、というpropagandaを警戒し、作品評価を留保するというものではなく、作品内に通暁する、とってつけたような'残酷さ'を、イマイチよく理解出来なかった。

残酷、という言葉は妙だ。
人為的、というnuanceを多分に含む。

予測不能に横たわる、accidentalな出来事に遭遇する。それは"不条理"と呼ぶべきで、残酷とは言い難い。因果応報にないからだ。因果に帰結、つまり期待に対する裏返しとして、"残酷"という言葉は呼び出される。内観・内省的に'言挙げ'されていく。その意味で、"残酷"という言葉の地平には、'可哀想'と似て、自意識や投影感情が多分に含まれている。analogyに敷衍すると、『可愛い』の語源は、'面映ゆい'にあるという。曰く、覚束ない様子を見て思わず手を差し出したくなる感覚[ex.おぼこい≒処女]。これを踏まえると、村上隆の'Kawaii'-愛のない萌え-こそ、initializeに誠実な、アイロニカルな応接にあるのがわかる。

「ヴァイオレット~(略)」を観てぼんやり連想していたのは、鵜飼いや合鴨農法といった、人為的な設計に落とし込まれる残酷さ、にみる共通感覚だった。ゆえに、果たしてこれを手放しで称揚していいのか、にわかに立ち止まってしまっていた。わからなかったのだ。なぜ『戦争』なのか。なぜ『義手』なのか。Eurasiaを"舞台"にしているようでいて、作品内に流通するコトバは、なぜだか印欧語根に無い。この作品において斯様に象徴であり、同時に'縛り'にもなる『言葉』は、舞台装置と位相がズレて在る。視覚的にも、登場人物に相対して少ない"金髪"は、反復的に言及される、跳躍のモチーフと相俟って、アヒル-家畜化した鴨-に紛れ込んだ白鳥、つまり'みにくいアヒルの子'を、どこか仄く漂わせている。白人租界的、裏返せば、鍵格好付きの「orientalism」を当て擦っていく、『~を模したもの』の地平を、作品貫くように帯びている。

近代化、つまり「高度経済成長」と、それを'裏書き'する農村から都市部への人口移動・流入をひとまず終え、先に近代化を果たした先進諸国と同様に、中央政府は"一回きりのボーナス"を使い果たす。重なるようにして、形而上にある文化のフレームでは、これまでの既共同体に通暁する『大きな物語』や、大文字の○○、としたものが、次第に輝きを失っていく。戦後ベビーブーマーは35年ローンを背負い、見渡す先に、駄駄拡がるスーパーフラット。そんなシミュラークルの地平から、もがき、苦しみ、飛びだそうとする、文学的昇華(≒心理学的補償)を眼差す作品は多い。代表は、ZION(≒シオニズム)を刻印する富野の「機動戦士ガンダム」だろう。ガンプラの隆盛により"男の子向け"とする向きも多いが、当初打ち切り寸前まで視聴率の落ち込んだあの作品を、一大ブームにまで押し上げたのは、『シャア』に心酔する女性ファン層による、"銃後"の支えによるところが大きかった。或いは、そうした二次創作的楽しみを見出す有り様'が、発見・認識されていったのは、彼の作品に端緒顕著だった。その意味で"ガンダム"は、ポップカルチャーの存在理由をあらためて参照する、家父長的マッチョな冒険譚や、自己陶冶にみるマスターベーション作品群の、真反対に位置する作品といえる。

少し間を置いて、花ゆめにブームを興した"ぼくタマ"こと、「ぼくの地球を守って」。同時期には、全盛期にあったトップアイドルの-父親とも歳の離れた俳優との'失恋'と目される-自殺に惹起、同作品の物語設定に影響を受けたかのように、前世のソウルメイトを探し、共謀して自殺を図る若者がにわかに増加した。この作品でもシャア同様、女性層に圧倒的指示を集めるキャラクターがあった。名を"ザイ=テス=シ=オン"。やはりZIONの四文字を埋め込まれる、郷愁的な設定を含有する、魅力的なiconであった。"シ=オン"は紫苑とも表記し、'鬼の醜草'のダブルミーニングにもなっている。"ガンダム"同様、というより作者日渡自らが作品内で二次創作的をやりまくる、ヤクザ、ヤンキー、ヤオイ、オカルト、宗教、古典、という、『オタク』の好きなガラクタを集めるだけ集めた、今に繋がるコラージュ的creationの先駆けだった。

既流通する商業動画を再編し、時にベースレイヤーに既存曲をあてがう、『MAD動画』というジャンルがある。「ヴァイオレット~(略)」も分厚いファン活動に支えられ、動画プラットフォームに多くの投稿を見て取れる。どれも優秀な仕上がりで、奏上する曲と作品はあまねく相性がよく、作品を観たものとって、一瞬でその世界観にトリップする。viewを獲得しているのは、繊細にトンマナを参照し、高度に抽象、濃密なsummarizeを叶えてゆく、そんな動画が殆どだ。わたしの『お気に入り』の、「ヴァイオレット~(略)」を題材にする二次創作動画も、Favoriteと賞賛に溢れていて、だからこそコメント欄をスクロールした先にある、突端に書き込まれていた一言に、不意打ちを食らってしまったのだった。

"彼女はこんな声をしていない"という、非寛容で排他的な、匿名投稿にはありがちの、他愛の無いものだった。別段大袈裟にするものではない。だが、こと「ヴァイオレット~(略)」に言及するとき、初期値[initialize]にこれを思い出す。作品の受容は個人的なもので、それを誰かと分かち合う'必然'も、必要もない。この作品が本当に好きで、好きすぎて、依存し、没入し、同一化[paranoia]する。その感覚はあらゆる作品にとって、嚆矢であり、絶対に忘れることはできない。これを書き込んだ人のことを想う。origin以外は許せない。noisyなものは排除していく。この怨嗟にも似た潔癖[punishment]を、無為にはできない。美的実存に鼓舞し、爆ぜる金切り声こそ、ヴァイオレット・エヴァーガーデンそのものだからだ。

彼の作品に谺〔コダマ〕する、『自由の刑に処される』の頸木〔クビキ〕

「ヴァイオレット~(略)」の評価を躊躇するもうひとつは、これが英国文学『ジェーン・エア』のオマージュ、その原作者シャーロット・ブロントへの口寄せを想わせる、感傷的な仕掛けを多分に用意していることによる。


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