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エヴァ、ナデシコ、俺ガイル 、リゼロ、そしてゴブスレへ

"機動戦艦ナデシコ"というのは、

『アキトは、わたしのことが好き』と言っていた女の子が、

最後に、

『わたしは、アキトのことが好き』と言う。

ただただそれだけのアニメーションである。

逆に言えば、この一言を言わせるために、ありとあらゆる"ガラクタ"を寄せ集めて26話+劇場版+othersは創られている。目標がはっきりしている分、スクリプトに無駄が無い、否、無駄しかない。

§   §   §

たまに見る『恋愛しか脳が無い』というディスは、何かを言ってるようで、『なる注※』並みに、ほぼ何も言っていない。ここで言う"恋愛"とは、抽象度高く、自分自身をアイディンティファイする何か、くらいの意味に取って欲しい。レトリックとして、恋愛以外に拓けることで、結果"恋愛"にも資する、の反語的表現というのは理解出来る。とはいえ"恋愛"とは、"持てる限りの全人格を動員する総力戦"なわけで、恋愛脳ディス勢もまた、最終的には「『恋愛しか脳が無い』とディスってる人の恋愛」に回収されていく。アイデンティティはそもそもフィクションだ、という構えもまた、『避難所』以外の"意味"を持たない。積極的に選択をしなくても、選択しない、という選択肢として回収されていく。(※"なるべく注意深く見守っていきましょう"というクリシエによる〆)

説明的なお色気も、「『説明的な』お色気」として、その作為も含めて可愛らしく見えたりもするが、残念ながら作為的なお色気に、延髄を破壊するような欲動は期待出来無い。また相手には「『その作為含め』可愛らしく見えている」ということを忘れてはいけない。正確に言えば、"説明的なお色気"に惹かれてるのでなく、説明と説明の狭間に視る"details=不作為"に結果惹かれているのだ。"衣"に"刀"を入れる、で『初』の字が出来ているように、色気とは忘れたころに仄かに薫る、沈香のようなものなのだろう。『お色気』が苦手だとしても、それが直ちに"asexual"を意味しない。

"全人格を動員する総力戦"とは、仮に『何らかの作為』を試みたとしても、それは「『何らかの作為』を試みた人」として相手には回収されている。これは"任意性"はキャンセル出来るが、"恣意性"はキャンセル出来ない(=客観であることは不可能だが、公平さを担保することは出来る)ことを意味する。つまり、"不作為的作意(位相)"と"作為的不作為(逆位相)"が重要なワードになってくる。総じてこれらを『アイロニズム(逆位相=ノイズキャンセリング)』と呼んでいる。

♪  ♪  ♪

注釈を加えるなら『俺ガイル』はラブコメを謳っている以上、"aromantic"層にはリーチしない。仮に"リーチしない"という関わり方をしたとしても、視聴者はきっと気付かない。そしてたぶん"aromantic"の人はラブコメを見ない。よって"aromantic"層にリーチしなくても問題はない。というエクスキューズが、俺ガイル三期、プロム冒頭に関しての、"SNSやらない層はプロムには参加しない。だから度外視してOK"、発言の本懐だと、思っている。ただ一つ言えるのは、romanticismを否定する、それこそ究極的なromanticismでは無いだろうか。

この項通じて、『俺ガイル』雪ノ下雪乃と比企谷八幡の異同に、補助線を引いてみたいと思う。

雪ノ下雪乃は当初、"ブラインドジャスティス"(=Lady Justice)の寓意として描かれている。『聲の形』では、みんな大好き川井こと"リベラリズム"ちゃん♀の表象といえる。

では、比企谷八幡は。
雪ノ下より、"葉山隼人"との対比が綺麗に描かれているので、先ずはそちらから見てみよう。葉山も比企谷も共通していえるのは、まるで経済学徒のようにrationalなアプローチを徹底するオポチュニストである。それを踏まえて葉山は"最大多数の最大幸福"を追求し、八幡は"最小不幸"を追求する。むかしの政党の公約みたい。

葉山隼人の歪さは、歪さが無い、という歪さだ。"整然としたバラバラ"が人為(="偽")であるように、歪さの無い歪つもまた歪つである。だが彼はその歪さを自覚している。一般に"公安のパラドクス"と呼ばれるもので、自由主義は"自由を脅かす"自由をも許容してしまう。ゆえに"公安"という歪つな存在が許容される。これは、公正さを実現する為に行う"不公正"を許容する、アファーマティヴアクションと鏡映しの関係といえる。彼は"公安警察"である以上『"自由を脅かす"自由』以外にはアクセス出来ない。そこに、『自由を脅かす自由』そのものであるjokerこと比企谷が現れるので途端に牙をむく。でも比企谷は、そもそも自分をカウントに入れていない。箱庭の外側に出てしまっている。或いは"自分さえ"我慢すれば面倒事を解決(回避)出来るという『最小不幸』を徹底している。魔女教大罪司教『怠惰』担当、比企谷八幡。葉山隼人(=リベラリズムくん♂ "ネガティブリスト"方式)は彼に、"君はもっと自分の価値を知るべきだよ"と諭す。これは比企谷に敬意を払っているわけではなく、"マイナス"をとりあえずゼロまで引き上げるための説諭である。

そして葉山と八幡、両方を併せ持つと"マクシミン(マックス+ミニ)戦略"となり、これには"いろはす"が該当する。"いろはす"において重要な指摘は、位相(審級)が一段ズレている、というところだろう。いわゆるマージナルマンであり、マレビトに相当する。だからこそサッカー部ジャーマネかつ生徒会長という、"アンビバレンスな肩書き"を徹底されている。通常なら、女バスキャプテンかつ生徒会長的キャラクターで、ワンポイントリリーフ→中だるみ解消して終わり、のポジションのはずが、そうはなっていない。比類なき"いろはす"の輻輳性(=立場の多様性)は有意味であろう。

ガハマさんとは何か。消去法的に、かつてリベラリズム陣営に喧嘩を売った、コミュニタリアリズムちゃん♀の表象である可能性が高い。『聲の形』では、"リベラルアイロニスト"こと植野(父子家庭)に近接する。ガハマさんの最大の貢献は、わからないことが、わからない、という"無知の知"を踏まえ、それでもいいのだとゆきのんに覚らせたことだろう。

あーしさん、の役割があるような気がする。あれが単なるモブなわけがない。要は"モブである"という役割が、あーしさんのレーゾンデートルなのだ。これはハイスペックが揃う『俺ガイル』において、何よりも重要な立ち位置だ。ポジティブリスト(ホワイトリスト)方式を採用する雪ノ下雪乃に、モブ(~それ以外)であるあーしさんは見えていない。やがて履歴を重ねるうちに、雪ノ下の中で彼女の存在は増していく。あーしさん、いいやつ、あーしさん。ちなみに、コンテンツ界に生息するブロンドヘアは『正解』であることが多い。有り体に言えば、物語が駆動する上で、シンボリックな道標(メルクマール、もしくはターミナル)になっている。ノブレスに寄りかかるというより、『金(Au)』はもうそれ以上いじりようが無いのだ。よって"いろはす"のグラデーションの亜麻色から推定されるのは、もう少しで『正解』に辿り着く意匠、もしくは角度により『正解』である意匠、のどちらかだろう。(逆に銀髪は、いるのかいないのか判らない『深淵』メタファーとなる。めんま、エミリア、エキドナ、月白瞳美、電子の妖精、大今良時作品全て、ほか、メタフィジックな人達。いわば雪女の系譜。俺ガイル一期の林間学校エピソードでは銀髪ver.の雪ノ下雪乃が登場している。"材木座"はナチュラルボーンで妖精さん)

女比企谷こと、海老名姫菜。いつも混み合う海老名jct.のダブルミーニングだろうか。自意識が大変混み合っている。二期最初の閾値越えポイントである海老名のエピソードにより、まるで鏡映しのように、比企谷像が顕わになる。海老名のように、最初から諦めてしまえば傷つかない。箱庭の外側で観察者でいれば、何も得られないかわりに、何も失わない。それは比企谷にも言えることだろう。海老名にとってあーしさんは、雪乃下にとっての由比ヶ浜。ここにもフラクタル(反復性、重ね焼き)を見て取れる。

川なんとかさんは、『順接的コミュニケーションの姉妹兄弟像』というオルタナティヴを提示する"役割"で登場・挿入されている。一期の川なんとかさんエピソード(弟の学費に配慮してバイトする川なんとかさん)と、三期の川なんとかさんエピソード(弟が姉のようになりたいと思うのは"普通")は鏡映しの関係にあり、前振り→回収が綺麗に決まっている。二期バレンタイン企画の川なんとかさんと妹の"関係性描写(=順接的)"も、雪ノ下姉妹(=逆接的コミュニケーション)への対比として描かれる。そして、これら全てのエピソードで、比企谷は『何もやらない』をやっている。絶対現状肯定マン。

戸塚彩加はそのまま"彩り加える"。既存価値の位相を反転(PC準拠・フェミに配慮・ビジネスBL)。更に、俺ガイルコンテクストに沿えば、"森蘭丸"的意匠を参照することで、ヘテロほぼ一択の既存フレームを揺るがせにするアイロニー。立ち位置的には"trophywife"の性別翻案そのもの。所詮"飾り"なので掘り下げが弱い戸塚。戸塚と聞いて真っ先に思い出すのは『戸塚ヨットスクール』と『戸塚ヨットスクールを支援する会会長 』"石原 慎太郎"。戸塚の掘り下げが甘いのは、あーしさんと同じように、そのままでOKだという、"作為的不作為"をメッセージするものなのだろう。ところで戸塚は銀髪である。思えばカヲルも銀髪だった。果たして戸塚はホントに"居る"のだろうか。イマジナリーフレンドではないか‥。俺ガイル一期学園祭の、『星の王子様』引用のメタメッセージは、"大切なものは目に見えない(=言挙げ)"と"キツネ×王子様"のエピソード、総じて"逸っしたものは還らない"(=失って初めて理解する)

戸部‥ハート強い。おじさん並みにタフなメンタル。C.V.茶度さんである理由がわかった気がする。当初違和感しかなかった『戸部×海老名』も、補助線を引いた今とても理解出来る。いろはすのスピンコントロールがなければ、戸部は普通に強者だろう。ゆえに、渡航も寄りかかれるキャラクターとして、使い倒している(笑)。海老名さんを何とか出来るのは、もはやおじさんメンタル戸部しかいない。

平塚センセ。別項で是非取り扱いたい。フェミニスト"平塚らいてう"オマージュを伺える。エヴァではリツコの立ち位置にあたり非常に‥ざわざわする。けいおんのさわちゃんポジションでもある。平塚センセは『いつか、わたしを助けてね』と言える相手言える時が来るのだろうか。いやー、キッツイなー!

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『俺ガイル』の補助線として有効なのは、エヴァンゲリオン(≒愛と幻想のファシズム)よりナデシコ(≒テニスボーイの憂鬱)、というのには理由がある。

何かを獲るために何かを諦める それは戦争の理屈だ

これは『機動戦艦ナデシコ』の、アキトこと主人公テンカワアキトの象徴的なセリフだ。
ずっと胸にあったのは、私のthemeでもあるからだ。ナデシコ大好き。
繰り返すが"機動戦艦ナデシコ"とは、『女の子』のアイデンティフィケーションの話で、宇宙とかゲキガンガーとかは関係がない。いや、むしろ関係しかない。むずかしいな…。

"成熟とは何か"に対し、それぞれがそれぞれに問い掛ける、その際発したのがテンカワアキトの上記のセリフであり、これと良く似た逡巡を"本物宣言"以降の比企谷にも見て取れる。"経済学徒"比企谷八幡も、当初はオポチュニストらしく"合理的な選択"をしていた。だが『最小不幸』といえば聞こえがいいが、彼がやるのはいつも、"問題は設定され無ければ、問題とは呼べない"であり、つまりは"無知の知"を、逆因果に読み込んだもの。『逆因果』と書いて"間違い"とルビ振りする。要するに彼は『joker』なのだ。何も生み出さない。何も得られない。ただのニセモノ。ブラインドジャスティスを裏返したのが『化物語』の貝木泥舟(剣なき秤は無力/秤なき剣は暴力)だったが、比企谷は違う。ただの"絶対リセットするマン"だ。いわゆる"無敵の人"を擬らえている。3期に入り、比企谷はやたらとナルシスティックに描かれている。結論を言ってしまえば、ナルシズムを否定する、それもまたもう一つのナルシズムに過ぎない。無頼を気取れば気取るほど、キモいナルシストになるパラドクス。それを回避したのが『ゴブリンスレイヤー』だった。(小町ほか、比企谷に対す"キモい"の連呼は『演出意図(=有意味性)』があった)

ゴブスレさんとjokerの差異は何か。期待水準を上げずに願望水準を下げない、がゴブスレさん、期待水準を上げ、願望水準を下げると、jokerである。期待と願望は、複数形と単数形の関係にある(=倫理と道徳のアナロジー)。平たく言えば、期待せず、でも前向きに、がゴブスレさんの構えであり、他人には期待する、が自分では何もやらない、が『自粛警察』こと"joker"の構えとなる。期待水準を上げてしまうと、『勝手に期待して、勝手に傷ついて、勝手に被害者面をする』(やが君より"小糸 侑")という、"被害者に粉擬"することで得られるバーゲニングパワーの"魅力"にただちに懐柔されていく。だからそもそも期待してはいけない。でも、そのままだとやはり"弱者に粉擬"することで得られるバーゲニングパワーに対し脆弱である。要はかまってちゃんに堕してしまう。よってプラグマティックな構えが要求される。"オポチュニスト"である比企谷は必要条件を満たしている。『あとは、気持ちだよ、比企谷』。

ある種の孤独を引き受けることは、即ち孤立することではない。ゴブスレさんの代表的なセリフ『オレは奴らにとってのゴブリンだ』の謂とは、『自己愛性パーソナリティ障害 = joker』を代表するものではなく、"貝木泥舟"の棹指すブラインドジャスティスを擬らえるものであり、つまりは"いろはす"の『さ・し・す・せ・そ』的実践=プラグマティズムを意味するものだろう。あちらの世界で、ゴブスレさんは"剣の乙女"(=ブラジャス意匠)を"完落ち"させる。果たして比企谷は、ゴブスレさんにクラスチェンジ出来るだろうか。余談だが、ゴブリンのメタファーとして、わたしは平家物語における禿童カムロを思い出す。吟遊詩人(≒びわ法師)が謳う描写と共に、ゆるく重ねて見ている。ちょっと前の言葉でいえば、哲学的ゾンビ、主無き眷属、牧人無き羊たち。つまりはロストオリエンテーションの寓意。それを踏まえると、ゴブリンと位相がズレているオーガ(鬼、overlord)の存在が気になってくる。"Bull Shit!!"

『俺ガイル』雪ノ下雪乃の"いじめ"エピソード、『ゴブリンスレイヤー』"剣の乙女"のエピソード、『化物語』"貝木泥舟"のエピソード、そして古くは『車輪の下』や、(エヴァの元ネタとされる)『愛と幻想のファシズム』が徹底して掘り下げた思考実験、そして"新世紀エヴァンゲリオン" = 衣食足りてロストオリエンテーション(生きる意味を見失う)する子供達の『戸塚ヨットスクール』奮闘記。記憶にも新しいノーベル賞受賞のカズオ・イシグロによる『わたしを離さないで』( ≒ 角田光代による翻案は『密やかな花園』)。これらに共通する地平は、リベラリズムの枠組み、あるいは民主主義的なものでは決して届かない、構造的な欠陥をあぶり出し、その陥穽に落ち込んでしまう者を救済すべく、どのようにして"必要悪"を飼い慣らすか、 という構えと問いになっている。キャッチャーインザライから続く、広く取れば『文学』の機能的な役割に対し忠実な、決して終わることない問い合わせ。『必要悪』とは、"これが必要だ"と言ってしまった瞬間に、ただの悪に成り下がる、そんな厄介な性質を持っている。闇落ちすることなく、正義を振りかざすことなく、"いろはす"的佇まいをポップに実践し続ける。ファシリテーターいろはす。誰も誉めてくれない。そもそも気付いてすら貰えない。神の視座にいる"作家"だけは、その貢献に寄り添っている。(渡航Twitterより)

雪ノ下雪乃に"間違い"があるとすればただひとつ、"正義"を振りかざしてしまったことだろう。『正(justice)の善(goodness)に対する優位』という"物語"を咀嚼せぬまま(=harm principle vs offense principle)、素朴に邁進してしまう。当たり前だが、正義はいつでも鍵格好付きでしかない。素朴な正義は、正義でないものを排除してしまう。要は『正義を認めない(≒愚行権※)』という正義を許容出来ない。素朴な正義を邁進した結果、彼女が行き着く先は、ロベスピエール。

(※平塚センセの過剰な煙草表現+二期OP速度超過でキップ切られる平塚センセ。この2つは『愚行権』を形容する典型的例示。"権力"は最終的に『健康』をネタに介入を試みる = 生権力)

非常に珍しいと思う。渡航氏はもしかしたらアイロニカルな纏いの中に、何らかの寓意を込めてこの作品を描いているのかも知れない。夏目漱石『こころ』の"先生の妻君"を始め、コンテンツ内で描かれる女性像の多くは『わたしは悪くない』が先立つ。正しきことをする、で駆動する女性像はきわめて稀、というか見たことがない。だが、雪乃下のそれは本当に正義なのだろうか。『わたしは悪くない』をシンパシー対象に拡張しただけの、"私的な潔癖"ではないのか。葉山が「"自由を脅かす"自由」を事後的に処理(防犯カメラ的)するのに対し、雪ノ下は「"自由を脅かす"自由」を、事前に封殺(監視カメラ的)し、発生させないようにしている。エンジニアリング葉山に対し、コントローラー雪乃下。"お母さんと同じ"と喝破した、陽乃の慧眼は恐ろしい。母のように、姉のようにならない、と邁進した結果、結局は母と同じこと、姉と同じことをしているのだ。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』平塚らいてう著=本名 平塚 明ハル)。その陽乃も母の‥。その母も祖母の‥。その祖母も‥。つまりは同時代性を有するリゼロにも貫通している"贖罪意識"(アジャセ・コンプレックス)とは、外側に投射されれば『嫉妬』になり、内側に向けられると『毒親』になる。("脳科学者"中野信子はこの関係性を一般向啓蒙書に載せてミドルマン発信している。シャーデンフロイデ/毒親問題。正確には"嫉ましい=内側にわだかまり / 妬ましい=外側に投射"の謂なので、リゼロにおける『嫉妬の魔女』は両方を射程している。)

大規模災害後の避難所で観測される、わたしひとりなら我慢出来るが、子供や家族が不公平に晒されるのは我慢出来ない(=家族のため、子供のため、なので"わたしは悪くない")として暴走する『嫉妬の魔女』は、主に"母性愛"の名で流通し、我々のうちにいつの間にかビルトインされている。『毒親』、つまりは、ネグレクトによる贖罪の埋め込みによる隷属(雪乃)も、過干渉による自尊感情の毀損による隷属(陽乃)も、機能的には等価にあたる。この姉妹は等しく"被害者"(※)なのだ。そして多分、コントロールに傾向する母もまた同じく被害者にあるのだろう。被害者メンタリティを名指ししても問題は解決せず、贖罪の駆動そのものに気付かなければならない。罪があるとすれば、無自覚こそが罪なのだ。("オキシトシン"発見の功績は『本能』としての母性"神話"に終止符をうったこと)

(※『あなたがたは等しく被害者なのだから』は、雪ノ下雪乃が冒頭の『交通事故』を踏まえ、由比ヶ浜、比企谷両者に向かってに言うセリフ。『俺ガイル』通じてのハイコンテクストの"前フリ"となっている)

話が逸れるが、日本の神様は概ね女性だ。だからこそ、富士山始め女人禁制ゾーンがスティグマ(宗教的刻印=仲間と確認するための符合)として設定されている。女神が嫉妬する、のがその表向きの理由である(実際的な理由は、ホストクラブにおける「永久指名」制度がヒントになる=ロッカールームトーク)。卑弥呼は女王というより依代であり、女神を擬らえる"口寄せ(コレオグラフ)"に、母系に拠る下位互換の枠組みを、入れ子構造に見て取れる(=雪ノ下母と陽乃の関係)。それが古事記における始原点のみ、敢えて『反転』している。沖のミズドリの求愛の仕草を真似て、女神から男神に求婚する。でもうまく回らない。例えるならインブリードや、染色体異常による交配を擬らえるような帰結を呈す。お偉いさんに相談すると、男神から女神に求婚するよういわれ、仕切り直す。すると今度はうまく行く。重要なのはメタ情報の部分、なぜ『敢えて反転させるような"プリズム※"(つまりは"父性")を仕込んでいるのか』だ。男神が父性ではない。お偉いさんの言う『枠組み』= "制度設計" こそ"父性"と名宛するものだ。

『善(goodness)』を徹底すると、どこかで必ず"合成の誤謬"が発生する。クレーマーは、"部分最適を要求する人"とパラフレーズすることが出来る。クレーマー視座からは、"寧ろアドバイスしてやっている"、くらいの感覚でアクションしている人が多い。一般に、社会的地位の高い人が"クレーマー"になりやすいのは、暴力を振るっているというより、与えてやっているという感覚に等しい駆動を、その内部に抱えているからだ。"介護殺人"がなくならないのは、この"与える"という感覚に拠るところが大きい。逆にいえば、悪いことを、悪いことと解っていて、悪いことが出来る人はいない。ある種のdisaster=圧倒的な暴力に"悦び"や"癒やし"を見出すのは理解出来る。でもそれは自傷と他傷を錯誤する認知的な歪み、によるところが大きく、要は"自罰感情"を他者で代替してるに過ぎない。これは大量殺人を犯した者と接見する弁護士の述懐などによく見られる。"自殺したいのか、他殺したいのか"、よくわからなくなってくる、と。誰かを傷つけるフリをして、自分自身を傷つけている。この"贖罪意識"がもたらす駆動は、善(goodness)全般に当てはまる。つまり善行とは、"わたしは悪くない"をシンパシー対象に拡張適用したもの、といえる。無論これらはフォビアの裏返しであり、"認知的整合化"の過程を挟み、"斥力/引力図式"を参照する。フィンガーポインティングやポジショントークと呼ばれるこれらは、『悪への道は善意により舗装されている(german格言)』を参照する。だって『わたしは悪くない』のだから、悪いのはアイツ等に違いない。(=『戦争をしましょう』戦場ヶ原ひたぎ、こと"ガハラさん"エピソード『化物語』より)

『善(goodness)』の推進による合成の誤謬 = "deadlock"を解除する際、呼び出されるのが『正(justice)』となる。"just"の派生語に過ぎないこのワードが、過剰なまでに有意味なのは、それが"父性の別名"であることを皆どこかで知っているからだろう。一次情報を二次情報化する過程を"知性"と呼ぶように、『善』と『正』を架橋する"prism"を父性と呼ぶ(パターナリズム = "パパさん"的な介入、の意)。遡れば、一神教世界観の中心"ヤハウェ"を"父"と翻したのがミスリードの始まりで、これは原義に忠実に訳すと『わたしは"在る"である』となっている(ヤハウェ=つむじ、おへそ、と呼ばれる)。要はオリジナルには、辻褄を合わせる(=∴"just")以上の意味はなく、後に権威付け、後講釈(尾鰭)が付いたものに過ぎない。つまり、"父性"=禁止的な介入、ではない。

これは華夷秩序(東洋的)に従えば、『業』と『法』にゆるく重なっている。フロイトのアレなネーミングセンス("中二病"というより"中二"のセンス。ちんちん大好き)により、大分遠回りしてしまったように思う。学問的権威を獲得するため、"ブランディング"する必要があったんですよね。このコロナ禍でトランプはじめ"男性指導者"らの多くは、まるで『嫉妬の魔女』そのものの振る舞いを呈し、ドイツメルケルに限り、"ほぼ唯一"と言っていい父性を発揮している。無論、『マキャベリズム』を否定するものではない。マキャベリ的なものを踏まえてなお、逆因果、つまり手段が目的化してしまっている、という指摘だ。重ねて、アキャベリに棹指し反面教師的に振る舞うのなら、石原慎太郎のように"俺は必要悪であり続ける"などとナルシスティックな馬脚を露わすことなく、黙して墓まで持っていってほしい。それが"必要"だったかどうかは、"我々"が判断するのだから。(※石原慎太郎は、"必要悪"を言挙げして以降、大手既成メディアから"完全"に干される。察して直ちに"オワコン化"する大手既成メディアの"嗅覚だけ"は信用出来る。コンスタティヴな主張をパフォーマティヴに裏切ることに対し、"お笑い芸人"級に敏感な人でした。が、皆等しく老化するものですね。)

より抽象度を上げて言えば、赤川次郎『ふたり』を参照するまでもなく、ここでいう母や姉とは、自らとは別に『自律的(勝手)に駆動する言語体系』を意味する。つまりは言語による否定項の先取り(自動予期)がもたらすメンタルの不安定化。毒親問題というのは、単に親を回避すれば解決する、というものではない。一時凌ぎで"避難所"に回避するのは重要な選択肢としても、結局は『親』という仮想敵にリフレクションする自分自身の問題となる。雪ノ下雪乃は、私的な潔癖という"光学迷彩(※)"により、まるで"雪原"の光が乱反射するように、自らに住まう幻影と向き合わず、回避してしまっている。由比ヶ浜は、いろはすは、そして比企谷は、それに気付かせる。比企谷も、雪ノ下の姿を通して、自分自身の『絶対回避の能力』に、疑問を持ち始めている。それが、つまりは『本物』の意味するところであり、比企谷最大の『黒歴史』である"大見得"に繋がっていく。いつか春の陽が届き、雪原を隈無く覆えば、万年雪もまた融けだす日が来るだろう‥か。"ダイヤモンド"の隠喩が、光を内に留めないを意味する"ラウンドブリリアントカット"を示唆するのであれば、陽乃は雪乃に干渉出来ない。陽乃がもしアマテラス大御神(太陽神)のアレゴリーなら、アナ雪2(アナ+オラフ=メルト=融解 / 雪の女王=クリスタライズ=墓守娘 というバイナリーコード的対位法)の結末がそうであったように、ガハマさんのいう、"わかりあえないことが、わかるっていうか‥でもやっぱりわからない"に、着陸する予感に満ちている。

(※『やが君』原作仲谷鳰は、"古事記"のこの"プリズム"部分を翻案し作品内に落とし込んでいる。仲谷は、作品通じて"父性"そのもののリフレーミング(処方箋)を試みている。『毒親』に責を負わせるのではなく、"言語ゲーム"(≒母、姉)の駆動そのものに焦点すると共に、外部メンター="Significant Others"の重要性を示唆している。『やが君』の七海燈子(=唯我独尊)と佐伯沙弥香(=融通無碍)がそうであったように、パラレルな関係性もまた、"関係性のひとつ"だろう。)

(※『俺ガイル』二期最終話、水族園のペンギンに感化され"告白"をする由比ヶ浜の一連のスケッチにも古事記引用を伺える。渡航は、"素朴な正義"(初期雪ノ下雪乃=ロベスピエール意匠=乙女の潔癖)とリベラルアイロニズム(残酷さを減ずる構え)が、外形的には"ほぼ見分けがつかない"ことを踏まえ、その先にあり得る"父性"を模索している。)

( ※ 光学迷彩(攻殻機動隊) ≒ prismpowder(FFシリーズ) ≒ "ATフィールド"(エヴァ) ≒ 心の壁(笑)  押井守監督『攻殻機動隊』とは、"魂"(=ghost)が"躯"(=shell)にinclusionの謂 = "ghost In the shell" = "女の子のアイデンティフィケーション"の話)

俺ガイル、リゼロ、共に見出す特異性・新規性は、女の子キャラクターが青鬼役割(ツンデレ)を担っているところだろう。ツンデレと思われた雪ノ下雪乃も、私的な潔癖を拡張しただけの、結局は"他者救済のフリをする自己救済"の類いであった。それはつまりメンヘラ的表象(母毒汚染)を擬らえる系譜である。ツンデレとは即ち"自己救済のフリをする他者救済"の謂であり、それは言うまでもなく、"他山の石"としてすぐ死にたがる、男性キャラクターへの偏りが大きかった。リゼロ二期にてスバルは"死に戻り"しているのではなく、ただ妄想セカイで脳内"詰め将棋"を繰り返してるだけ、であることが判明する。そしてリアリティラインの内側で『死に戻り』を実装すると、比企谷八幡こと"絶対リセットするマン"になる。そう、残念ながら彼は人倫界に転がる、ただの凡庸な悪、ナルシスト、つまりはマイノリティ気取りのマジョリティーに過ぎない。子供が大人に憧れるように、或いは、不死のアンドロイドに憧れる"人"そのもののように、非凡さへの憧れもまた、凡庸そのものだろう。それは『凡庸すぎるほど凡庸ならば、寧ろ非凡といえるだろう(=枯れた技術の水平思考)』にクラスチェンジ(銀等級)したゴブスレには未だ遠く及ばない。

仝  仝  仝

ここにきて両クリエーターとも、青鬼ロールキャラクターに対し、俺ガイル(いろはす)、リゼロ(レム)と、意図的に性別翻案をしてきている。更に言えば渡航、長月に共通する地平に、『主人公少年に重ねない"父性"の可能性』の模索を見てとれる。アジャセコンプレックス(="贖罪意識"の埋設によるトラワレ)とは即ちファザコンの謂であり、つまり贖罪を解除するには、何者かに"父性"を託すほかない。その結果『女の子を救う少年譚』は類型化され、大量生産されてきた。

ところが俺ガイルでは葉山(『パリスの審判』のパリスとは、つまりはゼウス"父性"の化身。要するに雪ノ下父=葉山となる)に、リゼロではロズワール(=オッドアイ+clown装束は"非日常性"=executiveを顕す表象。"男根主義"をキャンセルしている)に、それぞれ父性役割を担わせている。ファザコン、即ち『贖罪』とは本来、恋人に投影するものではない。ましてや恋人に対して赦しを乞うようなものではない。父親不在の映画『聲の形』は、その意味でかなり際どい着地をした。大今良時、山田尚子、吉田玲子、そしてaikoという、天才性と女性性が揃ったからこそ、つまりは"贖罪の駆動"に極めて敏感だったからこそ、かろうじて可能にする着地だった。ED『恋をしたのは』(aiko)から読み取る寓意は人それぞれあれど、ここでいう"道標"の謂から何を感受するか、年を経て再び振り返りたいと思う。

俺ガイル冒頭の『交通事故』。あれはシンボリックな意味で、"贖罪の埋設"そのものを顕す『寓意』であろう。雪ノ下の贖罪、由比ヶ浜の贖罪、それぞれの抱える、抗いようのないもの。それでいて終わりのない、犀の河原の石積み。不謹慎な例えだが、免許試験場にある"償い"の作文群を思い出してしまう。俺ガイルに限らず、遍くコンテンツを貫く『贖罪』の通奏低音はこれからも続く。でも入射角が少しずつ変わってきているのは嬉しい知らせだ。レムは兎も角、"いろはす"にはファリック・ガール(©斎藤 環)の残響は伺えない。いろはすの八幡へのサジェスト、"おまえは父親になるな"(三期3話)は、"青鬼いろはす"のクリティカルな献身といえよう。

〆  〆  〆

折本かおりのエピソードの末尾、葉山との対比が際立つ場面で比企谷は、『俺にとっては当たり前のことなんだよ』と言い捨てる。その後自転車置き場にて、『私的潔癖=雪ノ下』と『絶対回避=比企谷』とのコントラストが決定的となる、あの"モノローグ"へと続いていく。俺ガイル3期通じて"佳境"といえる、"折本かおりエピソード"関連のシークエンスである。折本かおりは悪い子ではない。

俺ガイル3期を一言でいえば、

"投影性同一視"による誤読(上世代)/ 試行錯誤という名の"共依存"(下世代)

という対立軸になっている。

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