「俺ガイル」に通底するアイロニズムとは いわば"ポップであり続ける"という振り切り

ライトノベル『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』を読んで思う。
作者渡航がメディエーター(作家と作品を架橋するメゾ領域≒ミドルマン)として仮託するのは、平塚先生ではなく、もしかしたら材木座義輝かも知れない。

材木座の主張とはつまり、『萌えが好きで何が悪い』の一言に還元される。つまりここに、作家自身のラノベ作家としての矜持を重ねて見てしまう。作家自身一番" 嫌がる"言い方をすれば、バンクシーと称される"落書き"が都庁に飾られてしまう『ご時勢』に、クリエーター倫理に棹指し、『美少女』を振りかざし真っ向勝負に挑んでいる、という見立てだ。


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『雪ノ下雪乃』を貫くもの、或いはその代表的なセリフ。

"魚ではなく釣り竿を"

ここで言う"釣り竿"は、作品当初は解決方法の提供という、モジュールやスキームを指す言葉(="箱庭"の内側の最適解)として使われていた。しかし、作品を通じ、やり方を"試行錯誤"する『契機』そのもの(="箱庭"とは何か)を指す謂に、だんだんとスライドしていく。

『答え』を教えるのも『やり方』を教えるのも、実のところ変わらない。
メタメッセージは共に『わたしの言うこと聞いてりゃいいんだよ、このボンクラ』であり、対象となる受け手の"自律性"を著しく蝕んでいく。これらはティーチングとコーチングの"違い"として膾炙する。

ソレ、に気付かせたのは由比ヶ浜由衣であり、サジェストを与えたのは比企谷八幡だった。誤読を防ぐために、ティーチング、コーチングの二項分布は、どちらかが正しく、どちらかが間違っている、というものではない。重心の偏りというほかなく、要はメタメッセージに徹底して無自覚なのが問題なのだ。

コントローラー母と、その下位互換である姉を向こうに、雪ノ下雪乃は

"わたしは姉さんとは違う"

と宣言する。

主に由比ヶ浜の口を通して反復的に言及される

"わたしはわたしのやり方でやってみる"

はその導出となった。

そして一色いろはの"さしすせそ(※)"も、"ABCD包囲網"と戦う為の"ディシプリン"として、何より役立ったと思う。いろはすの橋渡しが無いと、この作品は機能しない。知らんがな。

(※さすが~、しらなかった~、すご~い、せんぱーい、そうなんですくぅあぁ)


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森美術館で『stars展』が催されている。
ここに大竹伸朗が入っていたら、また違ったのかも知れない。

artとは、破壊だ。

玄関に飾られるようなものではない。


いや違う。

バンクシー、もしくはバンクシーを模したものによるテロルは、寧ろ成功したと言える。

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