heteroでないもの
heteroでないものは、二重の差別に晒される。第一に、heteroでないことについて。第二に、その『理由』を求められることについて。
heteroであることついて、理由が求められないのなら、heteroでないことについて理由はいらない。だが、一般的にそうは見られない。heteroでない理由を詮索、そうなった切欠や経緯、"わたしたちの公正セカイ"に基づく『秩序』を要求される。これは、"佐伯沙弥香について"について、思いを巡らす中で、blindに入りわたし自身が見過ごしてしまった陥穽だった。 "一般的に"と主語を大きくしてしまったが、これは図らずも"残念を露わ"にした、わたし自身の話だ。
佐伯沙弥香のlesbianである"必然"、そうなった『経緯』を作中くまなく探していた。無論これは"無実であることの証明"であり、あろうはずがない。入間人間は通底する"暗黙"を見透かした上で、彼女に"理由付け"しなかったのだ。言い訳めいたことを言えば、lesbianとして決めうちにかかる、彼女自身のあり様に得心しないかったのであり、惹かれた相手が、たまたま魅力的な女性だった、とするなら引っ掛からなかった。erosは、(性自認問わず)『女』を愛すること、の謂もある。
erosはspectrumの地平に横たわっており、heteroである/ないの二項図式には収まらない。更には、erosもまた、Agápē(滅私),Érōs(性衝動),philia(友情),Storgē(履歴),概ね4象限に還元される。『分節』するのは社会的な規範の維持に資するもので、既存の分節を根拠に、それが"正常"であることの証にはならない。逆因果(black-swan)を読み込んでいる。分節、つまり『規範』は、時代(時)や地域(空)に依拠する限定かつ可変的なもの。加えてerosは直截に商売と接合しやすく、未分化のspectrumより抜き出て、殊更目につきやすい。『悪魔の証明』は不可能、と言い続けるほかない。
恋愛ものdramaのmain-castは、外的には高specであることが多い。無論『モブ子の恋』や、それに類する作品群は感覚的には増えてきてるように思う。が、これは線を挟む同位相で、ironicallyに"ウラ"からoutputしてるに過ぎない。つまり、軸足は"高spec"に置いたまま、束の間"体重移動"してるだけで、足の置く位置、事の本質は以前とそう変わりは無い。
dramaturgyにおいて、なぜ、社会的なspec高さに"一旦"は準拠するのか。それは、その恋愛が"代償行為"でないことの、つまり依存的な嗜癖の、穴埋めでないことの"足場"を、外的な立場や資質に求めるから。高specでなければ恋愛してはならない、というわけではない。"外壁(≒三人称を仮構)"に寄りかかった方が書きやすい、ただそれだけ。加え、"外的"や、"一旦は"、としつこくexcuseするのは、そもそも恋愛とは依存であり、依存性を否定した先に、信頼は存在しない。その意味で多くの恋愛dramaは、"initiation"と同梱にあり、恋愛と通過儀礼を同一視する作家は多い。恋愛と通過儀礼に違いがあるのか、専門家では無いのでよくわからない。が、『専門家』などいるのか、という問いと、"恋愛"とはなにかの、合意形成は不可能だ、という2つが同時に持ち上がる。これらは恋愛について掘り下げれば、自ずから解消するように思う。
わたしは恋愛を一種のenergyと捉えていて、必ずしもそれをerosに限定しない。dimensionを超えて、或いは"靴"に恋をしてもいいと思う。正確には『恋』という呼び名を、一旦は、宙に還してあげる"べき"必要があると思っている。通過儀礼とは"選抜"であり、乗り越えるためには"動機付け"が必要となる。その動機を裏打ちするのが、『恋愛drama』に限っては"恋愛"に求められる。ここには留意が必要で、恋愛はinter-active(双方向)のrelationで、ラスボスを倒せば終わり、という一意性のgameではない。むしろ、"ラスボスとは何か"に気付くことこそ、通過儀礼の真骨頂だが、それが双方向に発生するとなると、途端に輻輳性を増す。これらを同時に描写・記述するのは、ほぼ不可能に近い。本気でrealの進行をしたら、観る側の情報処理が追いつかない。よって多くの恋愛dramaは、一方が一段上にある状態にして、とりあえずは進む。ここでも、"とりあえずは"のexcuseが発生する。"外壁"に"一旦"寄りかかるのは、まあ仕方ない。turn制のgameなのだ。
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