"Simulacre"(朗読劇『佐伯沙弥香について』)

佐伯沙弥香の"沙"の字義は、第一義に拡がる瀬を意味し、昂じて清/濁をより分けるの意義になる。朗読劇は、冒頭直ぐのsceneで"沙弥香"の名に言及する。この『やがて君になる』は、メインヒロイン「七海燈子」の姉である、"水脈(みお)"にinitialを持ち、この"源流"から徐々に下り、大海原に抜ける航路が、いわば物語の軌跡となる。ここにゆるく重ねられる、"アンドロイドは電気羊の夢をみるか"。言葉を徹底することで言葉の埒外に抜ける、力強く内破してゆく"rhetoric"。後背に散りばめられる寓意の数々。この作品は"水回り"と、"~を模したもの"、が物語を解くkeyとなる。

災厄の"trigger"となる交通事故は、『贖罪』を埋め込むための寓意であり、云われなき"stigma"を背負う七海燈子をはじめ、佐伯沙弥香も、もしかしたら柚木千枝すらその例外にない。つまり女性が産まれながらに抱える、類としての女性が子を為す器官を有してること(sexism自然科学的)、個としての女性が子を産まない選択をすること(gender社会科学的)、この不可能性と不可避性に、無意識的・無自覚的に晒される"宿痾"(≒阿闍世complex)の寓意と言える。簡単にいえば「女性」は、(「男性」に比して)何をするにも"選択"を迫られる。オマージュする往年の名作、赤川次郎『ふたり』にも色濃く残照するこのlayeredは、文学的に救うことが本質の先送りになり得る、厄介な溢路を抱えている。原作仲谷鳰は、本編終局にて『古事記』に言及、"翻案"を試みている。そもそも「鳰」とは"オキノミズドリ"の別名。古事記翻案は"たまたま"ではない。

"アンドロイドは電気羊の夢をみるか"
「電気羊」とは今風にいえば"AIBO"のことで、本物に対す模倣を謂する。姉の模倣に端を発する七海が、不作為そのものである猫に惹かれるのは応報であろう。佐伯に至っては小学生時分より"自律的反復訓練"を旨とし、『「真面目であろう」と見せている顔』と、七海にからかい紛れに指摘される。可憐なふたりのアンドロイドは猫に夢見る。そして佐伯は通う「プール」で猫、ではなく"天才"に出逢ってしまう。

本編では「生徒会(「自治」の練習)」「planetarium」「劇中劇」「水族館」「修学旅行」と、"Simulacre"の地平が続く。全て本物足り得ない。畢竟『学生生活』とは、社会生活を模す訓練の場といえよう。本編・アニメーション共に通じ、此岸と彼岸を分かつ"gate"の徴となる踏切。間、半年を挟み、"gate"の意味は反転する。中盤佳境となる、川辺に戯る、飛び石の往還scene。息詰まるrhetoricの応酬。不可能性と不可避性、分断と融合、直交とparallelは、作品通じ至る所に散りばめられている。アニメーション版『やが君』本編を貫く、夕刻の赤に傾く色相。夕陽はRimbaudの『永遠※』を惹起し、キリストの教義を参照すれば、社会に淫するもの、トラワレを暗喩する。後の、夕陽から朝陽に転轍される、"移ろい"の記号操作は秀逸です。(※壺齋散人[引地博信]氏・訳は原典に忠実)

七海燈子が"St. Elmo's fire"の謂ならば、それを覆う"風防ガラス"は沙弥香ではなく小糸侑であった(扉絵参照)。今だから言えるが、当初持っていた小糸の強みは、"期待しない"に起因する強みだ。即ち『joker』としての強さであり、"男性"小糸である槙聖司にもこのlogyは通じる。theme性を共有する(≒"ホンモノが欲しい")『俺ガイル』における比企谷と海老名の関係にもanalogyが見て取れる。A-sexualやA-romanticに分化する、それ以前のSOGIに棹指す作品群が顕れている。敏感なcreator層は、性の多様性以前の、性からの退却に照準している。

"期待しない"ことは正しいのだろうか。期待しなければ傷付かない。私は何も悪くない。これは最強のlogicだ。だが最強である代わりに、事実何も得られない。小糸と佐伯、共通の地平に嫉妬がある。小糸は『ズルいっ』と七海に言い、佐伯は『何だか妬けちゃうなぁ』と独りごちる。妬ましい(ネタマシイ=外向性)小糸と、嫉ましい(ソネマシイ=内向性)佐伯。ふたりを分かつ分水嶺を見て取る。嫉妬に含有するorientationの違いは、期待の顕れと言い換えてもいい。横溢する航路のなか、沙弥香は気付く。"ハッピーエンド"が必ずしもhappyだけではないことを。"バッドエンド"が哀しいだけでは無いことを。沙弥香の"沙"の字は、清と濁をより分ける。ここにあるのは"ニーバーの祈り"。そして『切り取れ、あの祈る手を(佐々木中)』を反語的に願意する。

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。(大木英夫 訳)


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脚本が秀逸で、"佐伯沙弥香"を、"やがて君になる"を、着実に韻を踏みながら、見事に抽象/捨象している。入間の"text"を崩すことなく、しかし忠実に仲谷con-textを参照、最小限に構成・再構築している。花田十輝、入間人間と続き、鈴木智晴という"talent"が、またしても後押しする。

朗読劇というstyleの、真骨頂ともいえるmono-logue。前半60分と休憩15分、後半75分をかけて"集団催眠"にかかっていると、なかなか気付かないかも知れない。佳境となる終わり間際の独白。感傷的なBGMも、あざといlightingも無い。その数分間、たった独り、彼女の存在と、吐かれるtextだけが、その空間を支えている。spotの周囲に沈む暗闇は、時間すらも無為にする。輪郭はぼやけ、緊張感は無い。下地となる入間人間のtextは、高次の抽象水準を射程する。そこに在るのは、磯部花凛であり、佐伯沙弥香であり、おそらくはこの世の全てだろう。誰かを想うその事が、それだけで是である。たったそれだけで、それだけが世界を救う。

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