インドの無と有、宇宙論を覗いてみた。

参照していく対象は、当代流行のマルクス・ガブリエルの新・実存主義を考えたのですが、『なぜ世界は存在しないのか』(2018) をめくってたら、空と実の起源が気になり、まずは古いインドや漢字文化圏の知識を参照せねばならんと思いまして。これには、俺が記述した「世界は観と想、在るのは相と質」にあたる思い付きがすでに存じていないかという関心があります。

チャリで15分、中野のBook 1stにはかなりの基本的な書籍が揃ってて感心しました。

『零の発見』吉田洋一 (岩波新書赤1939年) というタイトルにずっとそそられて来た本をようやく入手したのです。ただ「とくにインドにおいて零の概念の発達を見たのはなぜであるか、ということが当然問題になるのであるが、こういう種類の問題に対しては明快な答えを期待しうべくもないことは最初から明らかであろう。なかには、これを『空』というようなインドの哲学思想と結びつけて考えようとしている人もないではないが、これは、はたして、いかがなものであろうか。… とうてい問題の本質に多くの光を投げえないのではないか、と思われるのである」と、バッサリ俺の興味を切り捨てられてしまって、ええ。これは数学者の実務的な立場てしょうが、いかがなものか。
和算といえば、関孝和。というくらい関です。草間彌生美術館が早稲田のはずれにできましたが、そこから数百メートルの寺に関孝和の墓があります。
微分積分に迫りながら到達できなかった江戸時代の理由に、筆で描図していた要素は大きいと思いますよ。現在の義太夫浄瑠璃の毛筆の「譜面」に似たようなことを感じました。メディアによる表象の限界。

一方、『インド的思考』前田專學 (春秋社1991年、新版2018年) は「起源」に強く迫ります。

第1章 宇宙生成論
「紀元前1200年ころを中心に編纂されたと推定されている、インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』のなかに素朴な形の宇宙の生成についての思弁がみられる。… そのなかに見られる宗教の本質は多神教である。…ごく素朴な自然神から、高度に発達した宇宙の根本原理に対する思弁までも含んでいる」

(ビッグバン宇宙の膨張という)「この近代科学の成果は、3000年前の『リグ・ヴェーダ』の詩人たちが到達した思弁的宇宙論の総決算ともいうことができる『ナーサディーヤ讃歌』(10.129)を想起させるものがある。」

「(中村元『ヴェーダの思想』より引いて)
1 その時無 (asat) もなかった。有 (sat) もなかった。空界もなかった、それを覆う天もなかった。なにものが活動したのか、だれの庇護のもとに。深くして測るべからず水 (ambhas) は存在したのか。
2 そのとき死もなかった、不死もなかった。夜と昼の標識もなかった。かの唯一なるもの (tad ekam) は、自力により風なく呼吸した。これによりほかになにも存在しなかった。
3 宇宙の最初においては暗黒は暗黒に蔽われていた。一切宇宙は光明なき水波であった。空虚 (tucchya) に覆われ発現しつつあったかの唯一なるものは熱 (tapas) の威力によって出生した。
4 最初に意欲 (kama) はかの唯一なるものに現じた。これは思考 (mamas, 意) の第一の種子 (retas) であった。聖賢たちは熟慮して心に求め、有の連絡 (bandu) を無のうちに発見した。
...
7 この展開はどこから起こったのか。かれは創造したのか、あるいは創造しなかったのか。最高天にありて宇宙を監視する者のみがこれを知っている。あるいは彼もまたこれを知らない。」

「この讃歌は、有と無が分化する以前の段階、あるいは有と無が存在する以前の段階にまでも読者を引き戻す。換言すれば、有とも無ともいえない原初状態である」

いやー、ムチャクチャ面白いです。
なのに、時代が経っていくとインド地域では、仏陀が解脱を極める事のほかには、事物を見つめる感覚は、属社会、属人に強く振れ幅が向き、普遍的な「有無」や発生に関心が向かない、ヒトの宗教的な方に行ったものと、他のページの記述で印象を受けました。

俺の関心からは外れます。

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