2024年7月14日(日) 「おおつちありがとうロックフェスティバル」のこと
はじめに。
いわゆる“ライブ”とか“フェス”レポートではないです、というお断りをしておきますね。高橋ちえ、この日を通しての雑感ということで。
朝9時半をまわった頃、会場の「おしゃっち」(大槌町文化交流センター)に到着。“ちょうど松本哲也さん(のライブ)が始まったところですよ!”とスタッフに元気に声をかけられる。そこかしこ、至る所にあふれる笑顔。
ところでなぜ施設名が「おしゃっち」?方言か?と思って尋ねたら、一説には“御社地(おしゃち)という地名がこの付近にあった”とのこと。なるほど。
そんな今回の会場・おしゃっち。会場内も会場の外にも、これまでの“ありがとう”がいっぱい詰まってた。
そして震災からのあしあとを感じられるものも展示されている(常設のものも)。ある町民の方が寄せた文章に涙が止まらなくなる。
“ここからが本当のスタート。いろいろな店ができて、人の流れができればいい。帰り道、夕飯の支度の匂いがしてくるような町がいい。”
震災後、2012年にうぶごえを上げた「ありがとうロックフェスティバル」(以下ありフェス)は、今年・2024年の開催をもって幕を下ろした。
わたしはラジオ番組を担当してきて、例えばテレビ等もそうだけど、番組は必ず終わる時(とか、出演者が交代する時)がやって来る。でも、フェスやイベントが“終了する”…それをきちんとテーマに掲げ、わざわざ形にして見せることをするだろうか?と正直、思った。
今やインターネットを通して色んな発信が出来る時代。“前回の開催を持って最後でした”と伝えたり、何なら開催することなくしれっと終了しました、ということも出来る。
のに、それを選ばない。連日連夜ミーティングを重ねて会場作りをして、ちゃんと最後の最後まで、“ありがとう”を直接、伝えることを選んだ実行委員のひとたち。
開催を前にした岩手日報(7/13付)に掲載された記事から(抜粋/引用)⇨
“今回が最後となり「ちょっと力足らずだった」と話しながらも、「ばかみたいにありがとうと言ってきて、やっぱりいい言葉だと確認したい。今までの感謝と、最後にけじめをつける場に」”
…フェスで“けじめをつける”って何だよ!と読みながらツッコんでしまったが、そういうとこが大槌のひとなんだよなぁ、ってクスッとしてしまった。
さて、ありフェスの名物といえば飲食ブースも。地元のおかあさんが炊いたお赤飯から九州のうまいもんまで。そうそう、熊本のソウルフードなのかな?「太平燕(タイピーエン)」を知ったのもありフェス。全てを紹介することが出来ないぐらい、つまりは1日で食べ尽くすのはとても無理!目移りしてしまう飲食のお店が並ぶ。
そしてフェスといえばやっぱり、なくてはならないのは(大人にとっては)アルコール!ですが…
会場が変われど毎年、設置されているバーカウンター(と忌野清志郎さんのメッセージとお写真)。こんなフェス、あります!?
九州から世界一にも輝いたバーテンダーさんも含む大所帯でやって来てくれて、ビール・ハイボールからこの日だけのオリジナルカクテルまで。勿論ノンアルコールもあるし、子供向けに“カクテル体験(と称してジュースを混ぜて新しい味を作る感じかな)”をやっていたり。
そうしてお酒を酌み交わすうちに…あんな話、こんな話。震災の時のこと、震災を経てのこと。
この場所で顔を見合わせるからこそ、出てくる話。そして誰のどんな話の根底にも必ずあるのは、“ありがとう”。確かに“ありがとう”は良い言葉だし、伝えたい人には、ちゃんと目を見て会って伝えなくちゃ、だよね。
おしゃっち・外には大槌のサーモンを掲げた手作りのステージが。流木を使用したモチーフにはぬくもりを感じ、風にのってしゃぼん玉がぷかぷかと浮かぶ景色のなか。
この場所で、子供たちが披露した太鼓のことについても触れておこう。
津波で全部が流されてしまったという、おおつちこども園。しかしこの太鼓だけは残ったのだそうだ。
そんな太鼓たちを洗って、乾かして。こうしてまた、音を響かせている太鼓。無邪気さと、健気さと、一生懸命さが一体となって轟く太鼓の音は“ロック”そのものだった。
さて。おおつちありがとうロックフェスティバル・正真正銘の最後のステージを飾ったのはRIA+NORISHIGE。彼らのグルーヴは本物、だから「kadare」の歌詞通り“ずっさまも ばっさまも わらすどぉも(=お爺さんも お婆さんも 子供たちも)”、集まって体を揺らしてしまう。
そして彼らが最後にステージで演奏したのは「歩きましょう」。ステージにこの日の出演者が集まり、音に身を委ねながらそこにいる誰しもが皆、震災後の自分自身のあゆみを振り返る時間になっていたと思う。
最後の最後には笑顔で実行委員長がステージからご挨拶、でもやっぱり、感極まってたけどね。見せないように頑張ってはいたけどね。
ありフェスが終わるや、わたしたちは、翌日に同じく三陸・沿岸部での「KESEN ROCK FESTIVAL(以下ケセン)」が控えていたのですぐに移動をする予定でいた。のだが、なかなか会場から足が離れられない。いい歳した大人たちが“もう1杯、飲むか”を繰り返す。
“こうやってさぁ、年に1回、集まってさ。元気だったよ、ってお互いに言える場所がある。それが良いんだよなぁ”…そう言いながら、涙を流すおじさん。つられて涙が止まらない。何やってんの、いい歳して。いや、いい歳になったからこそ身に染みて感じるのだよなぁ。年に1回でも、こうして集まれる場所があって、顔を合わせて笑顔になれることのありがたさを。
後ろ髪引かれる思いで、手を振って会場を出た。振り返ると、まだ手を振っている。
ぐすぐす、ぐすぐす。どうしよう、止まれよ涙。っていうか何で涙が出るの?そもそも、何の涙なんだろう?なんなんだよ、もう。
そもそも大槌の人たちに出会ったのは、さかのぼって震災後の2012年・年明けだったと記憶している。
あれはケセンの人たちに会うべく向かった、大船渡での出来事だった。
なんだか賑やかで、言葉を選ばずに言うならちょっと図々しいところがあって。出来たばかり?とかの、ありフェスの名刺を渡してきたけど“この人たちとは仲良くなれない”って思った第一印象を忘れることはない。
でも、時は人を変えたし、それは何よりわたし自身も変わった…のかも、しれない。し、
今思えば、初めて会った頃の大槌の人は“震災なんかに負けない”っていう思いが強くて、その思いが強く強く生きる姿勢に出ていたのを、わたしが受け止められなかっただけだったのかも、しれない。
底抜けに明るくて、誰にも分け隔てなく接する。人間として普通なんだけど、そんな普通のことが出来るのがありフェスの人たちだと、今は思ってる、けど…うん、やっぱり第一印象ではそこまで思えなかったな(笑)。
最後のありフェスが掲げたテーマは「LAST STATION / WE CAN CHANGE」…これまでのありフェスは一旦、最後の駅へ。でも、ありフェスを通して変わることが出来たように、これからもまだまだ、変わっていける。人もそうだし、町だってそう。すべてのものごとが。
ありフェスが終着したとしても人生は続くし、時は流れる。ありフェスをもう背負わないとしても、自分たちが生きていく術は、ありフェスを通してたくさん得た。
だから堂々と、ありフェスという看板を降ろす。そして向かうは、次なる、何か。ありフェスが最後だと寂しく思うのはお門違いなのかな、と思う自分がいる。
“大槌になかったものを自分たちの手で、全て、新しく作りたい”…実行委員長はインタビューでそう語っていた。また、“ありフェス開催の話が出た時、街の皆さまはびっくりしたでしょうね。いわゆるフェスとかにも縁遠い町、だからこそ、ありフェスがどういう意味を持つのか。分かる人には分かる”と語っていたことも、記憶に残る。
そんな大槌というまちに刻んできた、ありフェス。
笑顔と涙がいっぱいのフェスを、ありがとう。
“ありフェスの皆とは、「Happy Endで始めよう」!”
昨日、おじさんから届いたメッセージを結びに。
ハッピー・エンドで始めよう
はっぴいえんどで始めよう
Happy endで始めよう
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