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最近急激に暖かくなってきた。桜も急かされるように満開になって早々と散っていった。もっとのんびりしてくれてよかったのに、と思いながら毎日家の前の公園に植わっている彼らを見ている。きっと彼らももっと長い間人々に見てもらいたかっただろうに。

暖かくなると出てくるのが虫だ。地を這っている虫であればかまわないのだが、羽虫が本当に無理だ。
まず音が無理。あれを聞くと毛が逆立つ。いつまで耳にこだまするそれは本当に鬱陶しい。少しでも音がしたら、実際に虫が居ないのだとしてもいる気がしてならなくなる。いない虫に対してビクビクしている私はさぞかし滑稽だろう。そうやって私を滑稽にする虫が嫌いだ。
それに、あの不規則な飛び方が無理だ。いつこちらに突進してくるのかと思うと恐ろしい。私は高校時代自転車通学だったのだが、暖かい季節は顔に虫がぶつかってくるのだ。私からぶつかっているのでは?被害者は寧ろ虫では?と思われるかもしれないが、私だって嫌な気分にさせられている。友達と話しながら自転車を漕いでいると、口に入ってくるやつだっているのだ。口内で留まってくれればまだいいが、喉に突撃するものもいる。喉に入ってしまったらもう出てこない。最悪だ。水を飲んでも喉に虫がぶつかった感触が残っているし、体内に虫が入ってしまったこと自体が嫌だ。それから3日ぐらいは落ち込んでしまう。私の胃液に溶かされた虫も災難なものだけど、それは自業自得だ。

少し前に恋人と夜ご飯を食べたあとに、上野の桜を見た。屋台なんかも出ていて21時を回っていたというのにも関わらずたくさんの人で賑わっていた。桜を見に来た人々はまるで、ばらまかれたパンくずを喰らおうとする鳩みたいだ。時期を逃せばすぐになくなってしまうものを求めている。
そこでは、夜は桜がライトアップされていた。特に不忍池の外周の桜はとても美しかった。池に鏡写しになった桜があって、どちらが本物かと疑うほどだった。ライトは桜を照らすだけでなく、虫も照らしていた。たくさんの小さな羽虫がライトの周りを飛んでいた。暖かくなって虫が蔓延る季節になるね、と少し眉を顰める彼。私は生返事をして、桜を見ることに夢中だった。
彼と別れて家路につく。日比谷線の電車に揺られてはたと考える。我々人間は桜におびき寄せられ群がっていた。虫は灯りにおびき寄せられ群がっていた。人間と虫は対して変わらないのではないか。大きさと、移動方法が違うだけで、習性はさほど変わりがないように思えた。

つい先日も同じように考えたことがあった。夜、バイト帰りに駅に向かう途中人が多いなと思った。今日は皆さん呑みたい気分ですか、と思いながら駅に入った。暖かくなったものな、と歩いていて、なるほどこれも虫かと思った。暖かくなると外に出て飛び回る。冬の間では平日にこれ程人がいることはあまり無かった。振り返ってみると、暖かい日はお客が多い。人間も虫と同じで、暖かくなると外に出て飛び回るのだ。そして、飲み屋街など灯りの沢山あるところに群がる。これじゃあ、本当に虫と同じではないか。満足のいくまで飲むと、ふらふらとした足取りで家路につく。まるで飛んでいる虫だ。私の嫌う虫と同じだ。

群がり、ふらふらとして、五月蝿い虫。群がり、ふらふらとして、煩わしい人間。たいして変わりはないのだ。人間に似ている部分があるから私は虫が苦手なのだろうか。虫と似ているから私は人間が苦手なのだろうか。どちらでもあまり変わりはないように思う。きっとこれから先、嫌いでなくなったとしても、どちらも好きにはなれないだろう。だって人間は虫なのだし、虫は人間なのだから。

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