どうにもならないキモチ
川崎市の事件をニュースで知ったのは、昨日お昼に一度家に戻った時。
言葉を失った。
本当に血が沸騰するかと思った。それくらいに怒りを覚えた。
でも次の瞬間、直感でふと思った。きっと犯人は社会や組織での生きづらさを、どうにもできなかったんじゃないかなって…。
そんな事を思う不謹慎な自分にも、苛立ちを覚えた。何でこの状況下で、そんな事を考えてしまうんだろう…。少し振り返ってみる。
…そうか。僕もきっと大なり小なり”そんな生きづらさ”を感じ、ほんの僅かかもしれないけど、全てを壊したり自分を壊したくなったことがあるからだって。
犯人はもしかしたら、職場で執拗なパワハラを受けながらも、生活のため辞められない自分をリセットしたかったのかもしれない。
人と上手く関わることが出来ず、自分の気持ちを共有できない苦しさを吐き出したかったのかもしれない。
そしてそれを受け止めてくれるような人が居なかったのかもしれない。
真に孤独だったのかもしれない。…って。
僕達は、沢山の刷り込みを経て生きている。子供の頃から見ている理想の大人、一端の社会人は、仕事をして家庭を養っている。
給料をもらうということが、大人・社会人としてのモデル。それが「男性」という”呪い”。
今でこそ多様化の時代となり、専業主夫も珍しくはなくなった。それは分かる。でも、いざ自分がそうなるとなれば、ハイわかりましたと即座に切り替えが出来る人が何人いるんだろう。
その心の中には、きっと、稼げない男性は家族を養っていないと、自らを社会の底辺のように定義してしまう自分が住んでいるんじゃないかなって。
そんな思いに押しつぶされた男性を何人も知っている。
もしかして犯人は、そうした社会と自分の距離に絶望し続け、救いを求めていたのかもしれない…と。
でも。
だからって同情なんて、これっぽちも出来ない。
どんな不満や不安があったのかは分からない。どんなにつらかったのかも、どんな目に遭ってきたのかも分からない。
でも、それと命を奪う事は別問題だ。
絶対に許される事件じゃないし、許しを与える余地なんて微塵もない。多分さ、こんなに辛かったんだから許したげて~なんて、声を上げる気にもならない。
いつも通り子供とバス停に向かって、ママが刺される瞬間を子供は見ている。パパが血を流して倒れる瞬間も。そして、病室で変わり果てた子供と対面する親の気持ち。断罪しようにも犯人は既に息絶えた。
こんなに救いのない話ってある?誰も救われてない。
全く接点もなく、多分今後も人生の中で出会うことがなかったであろう子供達と親ではある。それでも、今を生きている僕たちに出来るのは、せめて被害者の冥福を祈ること。
そして、こんな悲しい事件を繰り返さぬよう、どんなに小さくとも自分に出来ることを実直に続けていくことだけなんだと思う。
同時に、犯人の心境は知る由もないが、様々な苦難を背負って僕達は生きていることは真実。
その苦難を自分で乗り越えられる強さを持つことだけが正義なのかな?と思うと、多分それは違うと思う。
自分の意志と裏腹に、進学を諦めなくてはいけない若者達。
自分の意志と裏腹に、長時間労働を強いられる営業マン。
自分の意志と裏腹に、キャリアを断絶された若いママ。
こんなにも自分の力だけじゃ切り抜けられないことが溢れている。
全員を救えるとは思えない。でも、少し考え方が変わるだけで。少し声がけが変わるだけで、救われる人が居るかもしれない。
そんな見方も、あるかもしれない。
今となっては本当の動機なんて知る由もないけど、稀代の殺人鬼を生んでしまったのは、本人の資質だけでなく、場の空気と社会の責任だってあるのかもしれないから。
そもそも僕らは、思ってるほど強い存在じゃないんだから。
子供達が大きくなった時、笑ってカンオケに入れるよう、まだまだやらなきゃならない事だらけだな。
…あ~、もう。息抜きにエフェクターの話でもしようと思ってたのに。
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