不可知論を凡人に当てはめる

 尾崎豊の曲をよく聴く。友達にアルバム『壊れた扉から』収録のドーナツ・ショップという曲を薦められたのがきっかけだ。彼の生前残したメモ書きを編集した『NOTES 僕を知らない僕』を読みながら彼の曲を聴く。
 それから尾崎の書いた小説も読んだ。『誰かのクラクション』はとても好きだ。僕も煙草をくわえて、湘南辺りをスポーツカーで走ってみたい。個人的には「堕天使のレクイエム」も好きだ。不倫関係の男女の別れを描くそのシーンは重く、しかし羽のように軽く、空虚なその関係の終わりという名の死を克明に描いている。

 ライトノベルを狂ったように読んでいた時期があった。中学生の時だ。高校生になるとアイドル声優にドはまりした。ライブに、ファンミーティングに、その他諸々のイベントに友人と参加した。大学生になっても一人であちこち行っていたが、ここで僕の「オタク」という枠がかなりはっきりできたわけだ。同じ趣味をもつ友人は非常に少なかったし(中学校では馬鹿にされたし、それでクラスの人に疎まれていた節がある)、僕は内向的で頑固で好かれるような人格の持ち主ではなかったから、一人でそれらを楽しむことが多かった。

 なんだかんだと僕は(偏りこそあれ)色々な文章を読み、空想し、感動してきた。今でも眠れない日なんかは真っ暗な中で、それまで得てきたフィクションをモンタージュして、妄想なんかをしてみることもある。それは非常に甘美だ。楽しいというのは少し違う。甘美と言ったがそんな言葉でおさまるわけがない。それこそモンタージュ故にとりとめのない、まとまりのない、絵にするにも言葉にするにも充足しない世界。いや、そもそも何が完成形で何が求められているのか、それすらも分からない無目的の絵画、まるで赤子がでたらめに筆を走らせた画用紙上の模様のような。あるいは何度も何度も、何日もかけて推敲した文章に感じる物足りなさ、割り切る事へのもやもや感。「これじゃない」という満たされなさ…。
 思いつくままに言葉を走らせたが、やはり「これではない」感がある。むしろ言葉にしない方が、僕の頭の中で非言語的にモンタージュをして妄想をしている方が心地よいのではないかと思う。最近「不可知論」という概念を覚えたが、まさにここに適用すべきではないのか。一流の小説家になりたいわけではないのだ、何もかも美しく、納得のいく文体を創り上げようなんてしなくていいじゃあないか。僕は凡人なのだから、表現することに躍起になることは無いじゃあないか。
 そう言いながらこうもインターネットという大渦の中に、「表現」という一粒の砂を投げ込んでいるのはなぜだろう。承認欲求?
 


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