「結婚」という幸福について思うこと。

 最近あるライトノベルにはまっている(以下では「O」と表記する。誤解を招き、作品の評価を毀損したくないので)。Oは10年くらい前に完結した作品で、最近まで番外編が刊行されていた人気作品だ。その最終巻の末尾で、主人公とヒロインが結婚式を挙げる(本当に結婚するわけではなく、いわば愛の象徴として行うのだが)シーンがある。Oの番外編(3つある)ではいずれも主人公が違うヒロインと結婚し、その子どもも登場して彼らは「幸せに」暮らすシーンをもって結末となる。本編にしろ番外編にしろ、この作品では象徴的に、あるいは制度として主人公とヒロインが結婚することで物語は結末を迎え、彼らは「幸せ」を手にするという筋書きである。ファンも読んでいてきっと読了感を覚える、素晴らしい作品だと言える。

 私はここまで読んで(アニメ版で視聴して)、違和感を覚えた。一言で表現するとこういうことである。
 
 結婚=幸福なのか?

 確かにラブコメにおいては、主人公とヒロインが結婚して幸せに暮らしましたとさ、的な結末にする方が話としてはきれいだし、ファンも満足するだろう。作者だってそう思って、というかそのように描くことに何の違和感をもつことはないだろう。
 私がこのような違和感を覚えるような結末を迎える作品は、何も作品Oだけではない。思い返してみれば、私がこれまで読み聞きしてきたアニメ・小説・ドラマには主人公とヒロインが結婚し、家庭をもうけて子どもが生まれ、「幸せ」に暮らすという結末を迎えたものがいくつもある。何もOに限った話ではないのである(これを読んでいるもの好きな皆さんも、そういう作品を心に思い浮かべてみてほしい)。
 そしてはっきり言ってしまえば私は「結婚=幸福」観には抵抗感がある。なぜなら、それはヘテロセクシュアルという数ある間柄の特権化と、「幸福」に対する発想の貧困をもたらすと考えるからである。
 そもそも、人間が愛する対象は異性に限らない。愛の対象は男でも、女でも、動物でも、無機物でもありうる。誰かを好きになるとき、その人の性的指向はヘテロセクシュアルに限らず、バイセクシュアルやアセクシュアルなどもありうる。とにかく多様でありうるということだ。その相手にしたって同じことである。そうした無数の差異をもつ愛の間柄において、ひとたび「結婚」という概念が、イデオロギーが登場するや否や、たちまちそこに「異性間での」結婚というメインストリームが形成されてしまう。そしてそのメインストリームにのっかることで、結婚は当たり前で、主流で、「幸せ」なことだという意識が生まれる。さらにそうした意識の形成にメディアが加担するのであり、その結果が冒頭の作品Oのような事例を生んでいる。そう私は考えている。
 もう一つ思うのは、こういう結婚のイデオロギー性には、その当事者が「男」と「女」である点の自明性である。先ほど愛の対象には色々あると言った。だがもう少し突き詰めて言えば、我々は「男」とか「女」といったカテゴリ以前に「この私」という個体として存在している。性というカテゴリ以前に「この私」という「個体」があるのだ。私たちはこの個体としての特質を、結婚をイデオロギーとして特権視することで忘れかけてはいないか。
   
 …私はどうも恋愛を純化して、つまり「外見より中身」的に考えている節があるので、こういう「個体」が性に先立たれる恋愛を見聞きするとげんなりしてしまう。だからここまで書いたことをだらだらと考えてしまうのかもしれない。それに私は交際経験がゼロなので、こんな僻みにも、「負け犬の遠吠え」にも聞こえる戯言まがいのことを考えてしまうのかもしれない。
 それでもやはり、私は「結婚」のイデオロギー化はあちこちにあって、私たちの意識を支配していると思う。私は私が覚える違和感を尊重していきたい。


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