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語る「べき」ものと語る「ことができる」もの

 「語るべきもの」とは、それが他者から要請・推奨されていることを意味する。一方「語ることができるもの」とは、必ずしもそうした要請・推奨、つまり外発的動機づけを伴わないことを意味する。言い換えればそれは「語りたい」という意志が強く出る。
 「語ることができるもの」のストックは自分で増やしていくことができる。僕にとってその手段の主たるものは読書である。あの本のここが面白い、あの本を読んで僕はこう思った、こういう問題提起をしている、次はあれが読みたい…。読書でなくとも、最近自分が検分したことのなかで印象的だったことも語ることができるものに勘定できるだろう。
 しかし「語るべきもの」を予め知る事は難しい。そして語るべきものを知らなければ、己の語りは自分語りに終わる。「隙あらば自分語り」などという嘲笑を含んだ成句があるが、それは語るべきものを知らないからこそやってしまうことだ。語るべきものは言葉を交わすなかで、つまりオン・タイムでしか探し当てることができない。

 さて、僕には語るべきものが何もないので「隙あらば自分語り」をしよう。久しぶりに会った「知り合い」と言葉を交わす時、僕には語るべきものが何か一切わからなかった。見切り発車で食事に誘ったのだ。語ることができるものについて語るしかなかった。「知り合い」の放つ言葉から僕にとっての「語るべきもの」が何か、幸いにしてわかったが、自分からそれを探し当てることができなかった。とても退屈だったろう、今の僕には「知り合い」への申し訳なさが全身を駆け巡っている。僕は何を語るべきだったのだろうか。


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