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最低なこと

 ある飲み会でのこと。僕のことや同席していた(全員男である。ホモソーシャルだ)他の人たちの趣味など、そこそこ話が盛り上がってきたところで聞かれた。「この場にいる女の子の中でさ、誰が一番タイプなのよ」と。
 そのホモソーシャルな輪の隣には、同じ飲み会仲間の女性陣が同じく輪を作り、色々な話に興が乗っていた。僕は口の中で「うっ」という言葉を小さくとどめた。僕が一番回答に困る質問であり、回答したくない、というよりもむしろできない質問である。異性に対する「タイプ」という形式での価値付与。それが無礼であり、たとえ本人に伝わる事がなくとも道徳的な罪として自分の心に残り続ける、そんな最低の質問だからだ。
 しかし無言はこの場を乱しかねないのも確かなので、「いや、僕はそういった価値判断を下すことは差し控えさせてもらいたい」と正直に言う。するとそれがパフォーマンスのように見えたようで「知的」と言われ、ほめそやされてしまった。
 それで話が終わればいいのに、「でも実際はどうなのよ」とさらに迫られたので、僕は同じ回答ではぐらかすことはできなくなった。仕方なく、というかあろうことか僕は「タイプ」について考えこんだ挙句ーしかしぎりぎりの自制といおうかー「タイプ」に該当する、隣の輪にいるある異性の名の頭文字を言ってしまった。周りの人々は「えー、誰だろう?」的なことを少し口にした後、話は次の話題に移った。

 家に帰り、僕は後悔していた。「頭文字」を言ったとはいえ、自分の頭の中には「考え込んだ挙句」「タイプ」に該当する異性の顔が浮かんでいたのである。僕はルッキズムと捉えられかねない形で他者を「価値づけ」したのである。
 それから僕の頭の中はしばらく晴れなかった。そして僕はそのモヤを晴らすことにやがて「疲れた」。他者、あるいは自分の外側の世界にたいしてある価値を見出し、それを自分の「判断」として言明する。そしてその価値を内在化させる。僕はこれを先の飲み会においては最低の形でやったわけだが、飲み会でなくとも「価値」を口にし、求められる場は星の数ほどある。これから僕はそうした「価値」にさらされ続けることに僕は途方もない疲労感を覚えた。ましてそれが将来他者を傷つけることになるかもしれない。僕は自己認識として無力で、愚かだとしているため、後者についてはなおさらである。無力で愚かな僕は、知らず知らずのうちに他者を傷つけてしまう。


 今僕が求めている「自分像」としては「内は内、外は外」である。僕の内面世界には、「外側の世界」に関する(断片的な、しかし可能な限り豊富な)事実の記録と、それを参照する「僕」だけがいる。「僕」は一切の価値判断をしない。「僕」は人権とか、実存とかそういったこれまで手に入れてきた概念を道具として使い、「外側の世界」のことを知り、読み解き、批判して見せる。それらの道具に即して「良い」「悪い」と言ってしまうかもしれないが、それは「僕」の意見ではない。僕は「道具」を、それが自己矛盾を興さないように使っているだけである。
 屁理屈に思われるだろう。しかし僕は「疲れた」のである。それにこれは学術研究に基づく精密な議論ではなく、個人主義的な、生き方に関する考え方である(さっきこうした考えに近い立場として「外在主義」なる者があると知った)。生き方に関する考え方なのだ、そのくらいラフでいいじゃあないか。僕は疲れているとともに諦めはじめている。


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