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距離「学」、草哲学

凡庸な人生

これまで、西日本の田舎に生まれ、月並みな幼少期、色気のない男子校生活、自堕落な大学時代、歯車の一つとしての会社員生活、と、平々凡々といえばそのままの人生を歩んできている。

一方、そうは言うが、本人にとっては、そこそこ真剣そのものの悩みや葛藤を乗り越えたり、不意の出来事に鳥肌が立つような感動を覚えたこともあれば、子供の誕生には狂喜乱舞したし、表立って自分の名前が世間にでることはないながらも自らが受け持ったプロジェクトにおいて何度か我を忘れるようなエキサイティングな経験もあった、今更珍しくもない海外赴任を経験、世界の潮流の派生的な渦の中でグローバルな仕事をすることの醍醐味も肌で感じさせてもらった。

中途半端な、おっさんの人生哲学?

人に胸を張れるような人生では無いにも関わらず、幸運にも50年を超えて何かに生かしてもらった経験を元に、それなりの自分なりの人生哲学とでも言うか、生き延びるための知恵、最低限の根性みたいなものもある。

また、一方、幼い頃から今に至るまで、不器用に生きてきたからこそ、芽生えたいろんな興味、もしかしたら若い人たちに役立つのでは、と思うちょっとしたアイデア・知恵もないではない。

その一つのキーワードが、「距離」であって、もう10年、いや20年以上前、「これを、『距離学』と言う形で、昇華させたい!」 などという、あほな野望もあった。

ただ、知性に憧れながら、きちんと知性を磨いてこなかった、学術的なバックグラウンドも弱いし、経験として何かに飛び抜けているか、といえば、かなりニッチな領域においてのみ。

「差異」という言葉や、関連する現代フランス哲学にも興味もありながら、きちんとベースとして読みきれていない。「経験」をベースに、人を巻き込む程活動的でなかったことも事実。
結果、独り言を繰り返すのみ。

草哲学

しかし改めて、齢50を超え、個人的には人生第三クォーターと捉えてさてこれから何をしようと思ううち、改めて、「距離」と言う言葉に立ち返りつつある。

ようは、自分が人生の各局面で、人との距離、友達との距離、家族との距離、異性との距離、社会との距離、宗教との距離、客先との距離、世界との距離、人生との距離、自分自身との距離などなど、距離の取り方に不器用であったが故に、そこに敏感になり、でもそのおかげで、前に進むこともできた、そんな思いを総括してみたい気持ちが芽生えているのだと思う。

さらに、(実は、距離学、を口にした20年前から同じことを独りごちているのだが)自分にとって、だけではなく、実は、今こそ、世間、日本の社会、世界にとって、「距離」がテーマなのではないか、との思いもある。

そもそも、アカデミックなバックグラウンドを持たなくても人は生きていくのであり、それなりに自分なりの経験をもとに個々の人生哲学を築いていく訳でもある。
言葉も、哲学も、アカデミズム、識者、知識人といった人々の持ち物ではない。

そのあたりの、思想史の潮流に敏感であることは重要だが、何かの体系を学んでからしか、アイデアを発信できない、と言う時代では無いはずだ。
むしろ、この時代を、そうやって、なんとなく現代思想の潮流を間接的に受容しながら、もどかしく、世間に流されながら生きていくその最中で、自ら動きながら何かしらの言葉を紡いでいこうとするアクションそのもの。それが、平々凡々と生きているおっさんとしての哲学だし、だからこそ、同時並行で発信し始めて良いはずだ。

ただ、だからといって、なんでも思いつきの垂れ流し、ネット上で何度もリツイートされてるテキストのコピペからは一線を画したい。また、そう思うこと、そう思うと記すこと自体が、すでに、半分、「ミイラ取りがミイラになる」道を歩んでることは意識している。

とはいえ、そんなことを恐れていては前に進めない。
多少の時間をかけながら、総体として紡ぎ出せるかどうか。そこは、しばらく様子見だろう。

東浩紀氏の最近の著作を面白く読ませて頂いたが、誰の中にもある哲学について言及がある。

むしろ哲学はあらゆる場所に宿ります。だから読者のみなさんの人生のなかにも宿っています。

東浩紀氏は、これまでも常々そう実際に行動してきている訳だが、哲学者として、誰の中にもある哲学を引き出すために、テキストやアイデアを提供してきている。

ソクラテスは哲学者は産婆なのだといいました。みなさんのなかにすでにある哲学が生まれ落ちる手伝いをする。それが本来の哲学者の役割です。ゲンロンは、そのような意味で、つねに哲学の産院であり続けたいと考えています。

ありがたい話だが、別に、そんなテキストを待つだけに徹する必要もあるまい。

不器用でみっともなくて、アカデミズムのかけらもないかもしれないが、それでも、一人のおっさんの人生を形作ってはくれた、「くさ」な哲学として、「くさ」な側から展開しても良かろう。

「馬鹿には馬鹿にしかできないことがある」をモットーにこれまで、どうにかこうにか生きながらえてきた。開き直るつもりはなく、常に新しいアイデアは受容する精神は持ち続けつつ(それが、馬鹿には馬鹿にしかできないこと、の真髄なのだが)、草哲学として、今一度、「距離学(仮)」、あるいは、「距離だけ」について、もう一歩、展開を深めたいと考えている。

東浩紀氏に自分をなぞらえるような思い上がりは毛頭ないが、むしろ、彼ですら下記のような言葉を吐いていることに、年甲斐もなく、少しく勇気づけられたことは事実。

けれど、(中略)、欠点だらけの試行錯誤の先駆者としてぼくを見てくれるのであれば、それこそがぼくがやりたかったことです。ひとの人生には失敗ぐらいしか後世に伝えるべきものはないのですから。

と言うわけで、距離についての、妄想・暴走・迷走をしばらく続けたい。

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