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映画"MINARI"

(ネタバレあり。)

映像が優位な映画

いかにも観客をあっと言わせる豪華な風景、見事な存在感の役者がそろい、飽きさせない起承転結プロット、笑いもある、涙もある、さらに終盤には、想像通りの「予期せぬ」大どんでん返しで、見事なハッピーエンド。みたいな映画が多いのは、産業として進化する映画の宿命なのかも知れないが、とにかくこれでもか、と要素やサービスが満載だから、映画本来の映像に、じっくり没入する機会が減っているように感じている。
確かに、楽しませてもらいましたよ、とは思うが、まるで、Webサイト上のお節介な検索予測に、いちいち「ああ、君たちは僕のことをそんな風に単純な男とみなし腐ってるわけだね? ま、あながち外れてはないんだけどね…」と、イラつくのと同様な、予定調和的体験への微かな抵抗感を感じないこともない。

一方、MINARIは、そんな、セットのような風景、役者然とした存在感、プロットを感じさせる前に、じっくり映像に食い入ることのできる作品だった。
映画とは、言葉にならない何かしらの『距離』を映像で見せるメディア、と個人的には捉えているが、久しぶりに、ああ、映画をみたなぁ、と堪能させて頂いた。

家族という距離

もちろん、もったいぶるまでもなく、表現されているのは、「家族」という距離だ。夫婦、子供二人、祖母一人、の5人家族がいれば、それぞれ同士のいろんな距離があるが、それら全てを積分したかのような、ボリュームとしての「距離」。

・夫婦の間の距離
・親と子の距離
・子供を抱えた親とその親(子供の祖母)との距離
・子供同士、姉と弟の距離
・子供と祖母との距離

無論、これらに、さまざまなその他の距離が加わる。

・祖国(韓国)と、生活の場として選んだ国(アメリカ)との距離(物理的距離、文化的距離)
・以前暮らしていた都会(カリフォルニア)と、新天地である田舎の未開の地との距離
・地域と教会の距離
・地域の中での、出身地コミュニティの距離
・既知の生活と、新天地を求める、という夢との距離
・家族のためであるはずの「夢」と、家族との距離
・息子の心臓の病気と、家族との距離
・息子自身の、病気と自分との距離
・息子と友達の距離
・息子と、友達の酒浸りの父との距離
・「生活」と、農業との距離
・農業と「希望」との距離

距離を表現する「映像」

そうして、何よりこの映画が美しく心地良いのは、こういったさまざまな「距離」を、きちんと、徹底的に、丁寧に映像で見せていることだろう。
一つ一つの風景自体は、ある意味、Fantasticなものではないが、だからこそ、魅入ることができる。

・新天地へと向かう車の中の家族の表情、車窓の風景
・トレーラーハウスの表で、タバコを吸う父親と子供の会話あるいは無言
・暗い工場の中で、選別されるひよこ
・農場に立つ父親を見上げる映像
・家族で診察の結果を聞く病室
・殺風景な建物屋上駐車場での夫婦の諍い
・暗闇の中、燃え上がる小屋の炎

結論・回答を棚上げして、「距離」に身を委ねること

我々は、さまざまな「距離」の間に生きる動物だ。
そして、普段の生活において、そのさまざまな「距離」の狭間で、しばしば言葉にならない、嬉しい、悲しい、楽しい、苦い、などなどの様々な体験をする。
問題は「距離」だとは分かっていても、それを、頭の中で、言葉で解決をしたがる。しかし、簡単に回答は見当たらない。
むしろ、回答を見つける前に、その「距離」自身を、きちんと受け止め、味わい、身を委ね、順化して行って、良いのではないか。
そうやって、自ら意識せぬうちに、言語化しえぬうちに、成長していく。それが、生きる、ということなのかも知れない。

MINARIのような映画が心地良いのは、そうやって、もっともらしい結論や回答、ハッピーエンディング、教訓、といったものを、棚上げし、今目の前の「距離」を見事に映像として結実させているからだろう。

MIRAIとしてのMINARI

いや、もちろん、この映画が、全てを棚上げして、最終的に何も提示していない、と言ってるのではない。
むしろ、単純な言葉やサマリーにすらし得ない、はるかに豊かな希望(いうまでもなく、それは、経済的な豊かさでもなく、具体的な事業の成功というわけでもなく、ただ、ひたすらそこはかとないが胸をいっぱいにしかねない光のようなもの、だからこその希望だが)を描き切っている。
さまざまな距離としての映像を見せた後に、また、原点のように戻ってきた農場で業者に頼んでダウジングしながら水源を探す父親、近くの沢でいぜん祖母が植えたMINARI(セリ)を摘む親子。
結局、それで農業が本当にうまくいくかは、誰も保証していない。
ただ、それでも家族の「距離」は経験を増した。
個人的に、MINARIが、ついMIRAI(未来)に読めてしまうのは、たまたまであるとは思うが、その、異なる言語(韓国語、日本語)の英語表記の距離の間で生じた偶然の言葉の響きの距離から、自分なりの幸福な誤読を楽しむのも悪くない。






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