子供が生まれたころ、その泣き声がなぜだか愛おしくてたまらず、思わず携帯の着信音に設定してしまい、それが、会社の社員食堂で鳴り響いた時は若干、焦った。

赤ん坊の夜泣きをあやすのは確かに辛い時もあったが、総じて、あの小さな体を全身振るわせながら、何かを必死に伝えようとしている、その動物的な生命力にはただただ感動せざるを得なかった。
数年後、5、6歳の頃か、お絵かきが上手くできない、と癇癪をおこし、一人で大泣き。家族を部屋から追い出して、一人閉じこもるものだから心配していると、しばらくしたら涙まじりの笑顔で「やっと描けた!」と絵を差し出してきた。大泣きする前と後で、格段にに絵に違いがあった訳ではないが、子供の中に、自分なりの満足するライン、というのを持っていたのかと別の意味で感心した。

大人も子供も、泣く、背景には、これは達成したい、これは手に入れたい、という真剣な思いがある。泣ける、ということは、そこまで人生にピュアで真剣、ということだ。

進路、家族、恋愛、友人関係、資格、仕事の成否。それが、どんなに情けない自分の不甲斐なさによる敗北であったとしても、泣けるほどの思いを持っていたこと。そこには、最大限の賛辞を送りたい。

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