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映画と距離 『グラン・トリノ』から

心を揺さぶられる映画をみると、しばしば、自分がいかに揺さぶられたのか、を誰かに無性に伝えたくなることがある。

ところが、それがまたなかなか難しい。

言葉にしたくて、言葉にし得ないもどかしい体験こそが、そもそも「感動」の定義でもあると考えれば、当たり前とも言えるが。

その核心に触れ得ないから、止むを得ず、映画のストーリーをつたなく要約してみせたり、いかに俳優の演技がすばらかしかったか、自分はあのシーンがこよなく好きだ、などと、聞かされる方にしてみれば瑣末な断片情報ばかりを、一方的に言及する他ない。

本人も、核心に触れ得てないことは百も承知だから、「まあ、とにかく、見てみなよ」と最後に付け加えるのがオチ。

監督だって、言葉じゃ無理、映画でしか伝えられないと思って映画を撮ってるわけだから、まあ、それも無理からぬことではある。

監督が撮り、観客が見るものは、決してオブジェクトではなく、すべからく、何かと何かの間にある距離そのものだからだ。

『グラン・トリノ』
https://www.warnerbros.com/movies/gran-torino/

2009年に公開されたクリントイーストウッド監督主演の『グラン・トリノ』で我々が観たものは何だったのか。

ある気難しい老人と隣家の少年の交流?

たしかに、この二人の関係が、銃口を向ける出会いから始まり、時間をかけながら様々に変化していく様子が描かれる。

が、それは、決して、「映画は、世代を超えた美しくもちょっと意外な交流があったことを伝えたかった」ことを意味する訳ではない。

老人と少年の出会いにおいて、二人の間にまっすぐに構えられた銃口。

老人と少年の関係をとりもつ、気の利いた姉。

老人と少年の絆として機能する工具類。

復讐に立ち向かおうと意気込む少年と、それを物理的に禁じてみせる老人の間を隔てる、ロックされた地下の格子扉。

生まれも、年齢も、バックグラウンドとしての来歴もまるで異なる老人と少年。

この二人の間には、明らかな隔たり、距離がある。

その少しずつ性質を変容させていく距離を、映像として、物語として観せる媒体、オブジェクトが、銃口であり、姉であり、工具、格子扉となる。

最終的に、老人は、少年との間に、自ら決定的な距離を置く決断をする。

それは、少年と少年を巻き込む不都合な人々との間に距離を作るための決断でもあったのだが、それはこの際置いておく。

不在となった老人と少年の間には、永遠の距離ではありながら、確かな距離が、希望としてとして存在することを、映画は最後に観せる。

それが、少年の運転する車、グラントリノだ。

最後に流れるClint Eastwood 本人の歌う静かな枯れた主題歌が、その希望としての距離の肌触りをなぞる。

一体、少年と老人はどういう関係だったのか、少年は何を老人から学んだのか、老人は少年に何を伝えたかったのか。

そんなことはどうでもよい。

ただ、老人と少年の間に厳然と存在し、言葉にしたくとも言葉にし得ない、距離の美しさを見せたかったのだ。

その距離の先に、老人の生き様の尊さを見るか、少年という希望を見るか、アメリカという国家の今を見るか、それは観客の自由だ。

ちなみに、映画『グラン・トリノ』に込められた距離は、この老人と少年の距離、だけではない。

老人と、先だった妻との距離。

老人と、息子たち家族との距離。

老人と、言葉はしゃべらないが意思の通じる犬との距離。

老人と、隣に越してきた移民の家族との距離。

アメリカの文化と、移民家族の母国の文化との距離。

端的に、アメリカと移民の距離。

粋な70年代アメリカ車と、台頭する日本車との距離。

生と死の距離。

牧師と地域社会の距離。

従軍経験者と若いチンピラの距離。

少年と少女の距離。

少年と、少年の未来との距離。

優れた映画は、単に一つの距離を見せるだけでなく、いくつもの距離を重層化させ、幾重にも織り交ぜる。

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