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距離学で考えること

距離学、と、とりあえず名付けて、何かしらの知的活動? Movement? Dialogue? 独白? 考察? をする上で、さて、実はいろんなアプローチがあると思う。

A. 何かと何かの隔たり、と言う意味での「距離」単体

単純に

・人と人との距離
・子供と親との距離
・男と女の距離
・「男と女」と、「多様性のある性のあり方」の距離
・国と国の距離
・地球と月と太陽の距離

といった、想像のしやすい距離だけでなく、

・シニフィアンとシニフィエの距離
・メンタルとフィジカルの距離
・人間と言葉の距離
・人間と動物の距離
・人間と国家の距離
・現代人とホモサピエンスの距離

といった、観念的なものもある。

それぞれ、現実にどんな隔たりがあって、それがどうあると良いのか、どうしようもないものなのか、理想的なありようを語れるのか、そもそもそれぞれの「距離」は歴史的にどう変容してきたのか、いろんなテーマがあるだろう。

きっと、先行研究・参考文献・メディアに飛び交う言説・関連する引きこもごもな物語は山のようにあるだろう。

ポイントは、それぞれについて、その「距離」を語ることにどんな意義があるか、と言うことか。

B. 「距離」という観点から総体を捉え直す

逆に、それら、何らかのオブジェクトとオブジェクトの間にある「距離」が織りなす空間、ある意味、その「距離」が発生する元の空間、をイメージしてみることもできそう。

難しい話ではなく、それが、

・人間関係
・ジェンダー
・国際関係論
・天文学
・言語学
・人類学
・社会学

なんてことになるのかもしれない。
つまり、極論を言うなら、「全ての学問とは、距離について考えることだ」とも言える。と思う。多分。

上記に、自然科学を上げなかったが、何かと何かの「距離」や「関係」を扱う学問・科学として、数学・物理学をはじめとする自然科学は、あまりにも自明というか、むしろ、自然科学で扱う「距離」を、自然科学以外の全ての出来事、森羅万象に応用してみる、と言うのが発想の元でもあるから、でもある。

アルケーとしての「距離」。
古代ギリシャで、そんなこと主張した哲学者はいないのかしら?

ある意味、全ての既存の学問を、「距離」という言葉で、読み直してみる試みになるかも知れない。
とりわけ、現代の社会、地球で問題になっている、貧富の差・パンデミック・地球温暖化・宗教対立・差別などなど、これらを解決していくための、学問(つまり、経済学・公衆衛生学・環境学・宗教学・倫理学などなど)を「距離」という観点から再構成してみることもできるのではないか。
いや、すでに、それぞれの学問は、そういう視座を備えている筈であって、逆に、そう言った「距離」という視座から、世界を学び直してみる、てことだと思うが。

C. 対象を切り取ってみる一つの切り口としての「距離」

と、少しでも学術寄りになると、すぐにボロが出るので、すぐに散文的に逃げ出すが、「距離」をもとに、何か総体を語って見ようとする誇大妄想は重要だと思う。そのような総体を扱うには、時間も労力も必要だが。

一方、輪郭も定かではない、得体の知れない目の前の現象や、オブジェクトを、視界に捉えるための切り口として、「距離」は有効になる。

それは、複数の現象を、数値化して、それぞれの違いを具体的な差異(「距離」)として現前化させる、と言う意味だけでなく、今、目の前に存在して見える(と信じているオブジェクト)が、実は、何かと何かの差異(「距離」)としての存在であるのかも知れない、と言う気づきを与えると言う意味でも、ちょっと、エキサイティングな体験になりえる。

例えば、自分が付き合っている異性は、一人の人間であると思っていたのだが、実は、「今の自分」と、「自分がそうなりたいと思う将来の自分」との間を繋ぐ、何かしらの希望・期待・夢としての存在、であることに気づくこともある。

言ってみれば、目の前のあこがれの異性は、一人の人間存在、と言うよりも、「今の自分」と「将来の自分」の間に存在する、希望・期待・夢という名前の「距離」であり、だからこそ、実態があるようで掴みどころがなく、常にその存在は移ろってゆく、手で掴もうとしてもするりと逃げていくこともある。なんてことも、起こったりする。

という例えは、あくまで例え、レトリックではあるが、目の前の物事を、何かと何かの距離ではないか、と捉えてみたり、次元の違う二つの事象の間の距離とは何か、を考えてみたりするのも、実は、世界を眺めて行く上で重要だ。

D. 「距離」そのものとしての何か

ま、上記と程度問題の違いかも知れぬし、どっちから先覗いてみるか、という視点あるいは順序の問題かも知れぬが、「距離」を一つの切り口として、目の前の事象に取り組むだけでなく、逆に、徹底して、その切り口「距離」だけでしか目の前の事象を見ない、というスタンスもとりうる。

その一つの例が、このNoteでもたまに展開している、映画についての雑文。

もともと、何かの映画を観た際、その映像の中にひそむ「距離」について考えさせられたことが発端ではあるが、以降、もはや、映画とは「距離」である、としか見えなくなってしまった。

いずれ、このような、偏った物事の捉え方が、先に述べたような、何かしらの総体について考えることに役立つようになるかどうかは、全くわからない。

針金のように収斂していったジャコメッティの彫刻のように、それが、何かしらの収斂に向かうとするなら…

「距離」を考えていく上での、4つの柱

というわけで、大きく以下4つのアプローチで「距離」について考えていきたい。

A. 具体的なオブジェクトとオブジェクトの間の「距離」
B. 「距離」の総体
C. 対象を切り取るための「距離」
D. 「距離」そのものとしての何か

こう言った枠組み自体、考え始めることで、変容していくだろう。
枠組み同士の「距離」も測りながら、ぼちぼち。

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