私
前に、読みたい本があるのだけれど、電子書籍か紙の本にするかでとても迷っていた。
物質への愛や執着はあまりないというお話をたまにするけれど、本は触りたい。
人とベタベタ接触するのは感情が伴わないことの方が多くて申し訳なくなってしまうから、あまり得意ではないのだけれど、本は別。
本が特別な理由を少し考えてみたけれど、紙というのはサラサラしていて、水分を含んでいないから良いのかもしれない。
プールや温泉の床、唾液、汗とかその辺りが苦手だからか、ツルツルで水分のない紙は綺麗な感じがする。まぁ、カビた本とかは素手で触りたくないしマスクも付けたい。あと、傘も刺さず雨に打たれて帰ってきた後の濡れた本は苦手。ただ、濡れた女、濡れた男と聞くと、官能的なイメージがある。
それは背景が綺麗だから?
そして、本は新しさが匂いで分かるのも安心できて良い。お家の外から漂ってくる匂いで、何を作っているかほぼ分かるくらい、鼻には自信があるから匂いのつきやすい本は信頼出来る。
私は文字を見ながら匂いとか温度だったりを想像するのだけれど、そもそも本に特殊な香りがついていたら、その想像の妨げになるというのもある。とは言え、お家で本を読む時に香水を振り撒いて、匂いをわざと変える事はあるから、好きな匂いかその本にあった香りなら良いかもしれない。
ただ、匂いというものも慣れるから、慣れてしまえば良いのだろうけれど、自分にその匂いが付いていることに気が付けないのは恐ろしい。同じ所に入り浸るのは心地が良いかもしれないけれど、自分を客観的に見る為には自分の知らない所に行くべきなのではないかと思う。
自分の匂いがする場所では、自分の匂いには気がつけない気がするその点では、自分だけが異質な環境というのも、嫌いではない。
自分を見つめ直す機会だと思いたい。
あと、混ざり合った食べ物が私は好きではないのだけれど、それもきっと水分量の問題で、お粥とかは食べれないのだけれど、優しい、プラスののイメージがある食べ物が苦手だと損をしている気がしてならない。食べられないに過ぎないのに、理由を求められ答えると優しくない人間だと思われることが悲しい。苦手なものは苦手なのに。
あとあと、ほとんど添削せずに頭の中を見せびらかすと、接続詞?から幼稚さが窺えるし、本当に一貫性がないというかすぐ話を逸らしてしまう。
しっかり添削しないと、気持ちとしてはあとね!あんな事も考えててね!!!に近い。
だから、実際に会話するとそれを整理する時間がないから幼さを与えるのだろうな。
けれど多分、私は話を聞いて欲しい願望があるのだろうな。これをどう治すのかは知らないけれど、原因はなんとなく分かるような気がする。
不幸自慢みたいになってしまって良くないし、これを発信する意味がまるで感じられないけれど、書くことでどこか自分から離すことが出来る気がするので書いてみたい。
私の親はあまり真剣に話を聞いてくれなかった気がしていて、基本的にながらでしか私の話を聞いてくれなかったような気がする。
私の親はいつもゲームをしていて、そんな人生もありなのかなとは思うけれど、夜ご飯が毎日外食だった時もあったし、コンビニでご飯を買う機会も多かった。おそらく、これが影響して、異物混入や人が食べ物の上で話している環境に敏感。
自分がその会話に参加していれば良いけれど、俯瞰して見ていると汚さしか残らない。けど、温かいご飯が食べたかったし、感情が含まれているご飯は心が温まる気がしている。そういう経験も精神的なものを重視し始めるきっかけになったのかもしれないな。
そう、あと愛とは何かと言われて、時間とお金だと答えたけれど、分からないが答えだよということを言われて頭を抱えたことを思い出した。
けれど、私はお金をかけられてもあまり愛には感じない。コンビニや外食は安くはないけれど、愛は含まれていない印象を受ける。結局、商品として売れるか売れないかだと思ってしまう。
けれど、商品は時間も割いてもらえて羨ましいな。
お金だけ貰っても空虚。
食べたくないものも食べなさいと言われてみたかった。食べたくないものは食べないことができたから。まぁ、自己責任なんだけどね。
と、まあ、そんな感じでいつも家ではゲームしか見てくれなかった。けど、私は上手い下手かはさておき、人と話したり関わるのは好きだったし、今も好き。だから、話かけるのだけれど、いつも空返事。
私が話す意味はあるのだろうかと思ったけれど、話したかった。話さないと存在すら忘れられてしまいそうで怖いし。
こんな話をし始めると、前に本を読むのは、寂しさの現れだと聞いたことがあるけれど、それもあながち間違いではない気がしてくる。常に私に向かって話してくれて、疑問を投げかけてくれる。言葉をくれる。なんて有難い存在なんだろうと思っている。というのは今だからであって、その頃に本を沢山読んでいた訳ではないから、こじつけこじつけ。
まぁ、そうこうして、一回、真剣に話したい旨を伝えたことがあったのだけれど、やっていたことをやめて真剣に話してくれるかと思ったら、感情的に話されたことがあった。
そこから、感情的に話されるのも苦手。怒れば意見を通せると思っている猿みたいな安直な考えを押し付けないで欲しい。それならまだ、3歩歩けば忘れてしまう鳥の方が猿よりはマシ。
感情で話す人とはきっと馬が合わないから、感情由来の恋も苦手なのかな。
けれど、相手が興味のあることは比較的に聞いてくれるわけで、そういう意味で、私は相手の顔色を見ながら会話をしている気がするというか、興味のあることを探っている気がする。
あとねあとねで、派生した何かを掬ってくれたら嬉しいなみたいな。
最近観た「母性」があまり他人事には感じられなかったのはそこら辺も影響している。毒親とか親ガチャという言葉が蔓延っているけれど、そんな言葉は好きではない。毒子どもであり、子どもガチャでもある気がしているし。
ただ私は親にはなれないと思っている。
自分の責任にしたくない。
そんな、無責任な人間は嫌いだ。
そう言って、SMをし始める私はきっと大馬鹿者だし、鳥や猿なんかよりも格下なのです。
やることがあるのに、そんなことを考えたりする。
本当に何が一番相応しいのか教えて欲しい。
やはり、将来の夢は単細胞生物。