HAND4:欲が前面に出る人たち。
どうもです。
オリンピックまでにこの記事書き上がっているでしょうか。と書いてから書き始めましたが、無理でした。どんだけ経ってるのよ。
今回は以前ブロマガで少し話した「アドバイスする人」関係の話です。半分くらいは経験則ですが、軽い気持ちで読んでもらえればと思います。
また、特定の誰かに向けた悪意等は一切ありませんので、あらかじめご了承ください。
・前置き:承認欲求と自己顕示欲
昨今のSNSツールの発達により、個人が情報を発信していくこと、離れた相手とコミュニケーションをとることが容易になりました。一方で、SNSツールは承認欲求を満たす場としての側面が強くなりました。特にわかりやすいのがInstagramやTiktokなどのツールで、十数年前なら当然のように言われていた「ネット上に自身の見た目や情報を晒してはいけない」と逆行するように、自撮り写真や自撮り動画が投稿されています。
インフルエンサーという言葉が広まったのも、同じ時期にネット上で活躍する人々に対する憧れからでしょうし、そこを目指した結果として過激な行動に走った人も一定数います。バカッターなんて言葉で括られるくらいには、やらかした人がいたわけです。
ところで、承認欲求と似た言葉に自己顕示欲がありますが、この違いを説明できるでしょうか。
まず、承認欲求とは人間の基本的欲求の1つであり、「周囲から認められたい、注目されたい」というものです。そして、承認欲求を満たすための行為として、人目につく形で自身を大きく見せようとするのが自己顕示になります。つまり自己顕示欲は承認欲求を細かく分類したうちの1つなのです。
例えば、このnoteを書いているのも「皆に自分が思っていることを見てもらいたい」「それでスキがついたり告知がリツイートされれば嬉しい」「あわよくば投げ銭でお金もらいたい!」という私の承認欲求に基づくものです。ここに加えて、
「私は10年前からポーカーをやっているし、ポーカースタジアムのプレイヤーの中なら相当な実力者なんですよ敬え( ー`дー´)キリッ」
なんてやったら、これについては自己顕示欲になります。思ってないですよ?ホントに。
自己顕示欲における「自身を大きく見せる」というのは、いわゆる「見栄を張った発言」「過度の自己主張」などが一般的に考えられますが、基本的に自己顕示欲に基づく行為は周囲からの反応が悪いことが多く、一方で当の本人は虚栄に気づかれていないと思っているため、周囲とのギャッブがどんどん膨らんでしまいます。しまいにはこのギャップで周りが引いている状態ですら、「俺の主張は完璧だから誰も何も言えないんだ」という方向に持っていってしまいます。
自己顕示欲の厄介な部分はこれだけではなく、過剰についた自信をもとに「自分がやることは正しい」となることで、他者に対して勝手に非難を始めたり、本来全く関係の無い要求をしたりしてしまうこともあります。
承認欲求そのものはどんな人間にもあるものですし、自己顕示欲そのものは「それを表に出すことで満足できる程度の承認欲求」なのであれば問題ないのです。インスタ映えなどに全力を尽くすのもこれにあてはまります。その行為が周りからどう見えるかは別問題ですが。
本当に深いレベルの承認欲求は、これらの欲求が結果として周りから「恥ずかしい行為」として見られてしまうことを恐れるため表に出てきませんので、欲求がピークに達すると唐突に爆発する可能性もあります。どちらがいいかは断定できるものではないですが、少なくとも平常時であれば目に見える自己顕示欲の方が厄介に思えるのでしょう。
前置きはこのくらいで、本題に入ります。
・善意という建前の押し売り
どんなゲーム、あるいはスポーツであっても、必ず「初心者」の時期が存在します。もちろん初心者はセオリーや技術、戦術などを知らない訳ですから、当然ミスをします。また、理にかなっていない行動をすることもあります。
基本的に初心者のミスというのは、二人零和有限確定完全情報ゲーム、つまりはチェスや将棋やオセロのような非公開情報のないゲームであればマイナス要素以外の何物でもないのですが、ポーカーにおいては「確率的に薄い事象」によってとんでもないプラスに転じるケースがあります。いわゆる「ビギナーズラック」なのですが、ある程度ポーカーをプレイしていくと、このビギナーズラックを許せなくなるプレイヤーというのが一定数発生します。特にセオリーに忠実なプレイを好む人ほど、運が向かないことで損をするケースに対して苛立つ傾向があります。
そして、こういったセオリー主義のプレイヤーは、相手に対してこう投げかけるのです。
「何でそのハンドでこんなプレイしたの」
結局のところ、テーブル内でのアドバイスのように見えるこの発言自体、負けたことに対する苛立ちが溢れてしまったに過ぎないのです。自分の信じるプレイが絶対的なのです。
そして、これが常習化してしまう人が、いわゆる「ポーカーおじさん」と呼ばれるものになるかと思います。教えを頼んでもいないのにあれはこうだこれはああだとプレイに首を突っ込んでくるのは、自分が正しいと思うプレイに引きずり込むためです。しかし、その本音は本人すら気付かず、「善意で教えてあげるいい人」という建前が自分の本質であると錯覚したまま突っ走ってしまうわけです。
・老若男女問わず漏れる欲求
一時期、「ポーカーおじさん」という呼称が広まった経緯は、たまたま絡まれた側が女性で、たまたま絡んだ側が女性から見て年上(に見えた)男性であり、迷惑対象に「おじさん」が入った結果、その「おじさん」という言葉だけがフィーチャーされた結果、ノリで自らを「おじさん」と称する人が増えたことが起因かと思います。事実関係や詳細は知りませんので割愛しますが、「おじさん」という言葉のニュアンスは、どちらかというと「オヤジ」に近い蔑称となっている感じです。
結果的に迷惑行為と捉えられるかアドバイスと捉えられるかは相手次第なのですが、その本質は承認欲求からの行動であることは間違いありません。
そもそも迷惑行為に老若男女の差は本来関係ないのですが、世間一般的には男性から女性、年上から年下への行為ほど強く否定される傾向にあります。「パワーバランス的に逆らえないだろう」という感情を利用していると捉えられるためです。
特に男性の多いコミュニティにおいて、女性に対する男性の行為/言動については、その裏に下心があるものという解釈がなされやすく、より問題化されやすいです。逆パターンもありえるのですが、先のパワーバランスの逆になるため話題にはなりにくいものです。
また、この逆のケースで上位層が承認欲求のために自信を蔑むケースというのもあります。
いちばん簡単な例は、一般人からしたらどう考えてもすごいゲームリザルト貼って「自分下手くそー」なんて言ってるやつです。私はあまり居合わせたことありませんが、「わたし可愛くないし~ブサイクだし~」みたいな発言もこれに類するものです。
このタイプは乗っかるとキレられる、あるいは不貞腐れる、否定すれば調子にのる、付け上がる、といった具合に、どう転んでも受け手が損をする状況になります。そういった意味では、選択の意味を剥奪されているので、上記のパワーバランスの話と同質であると考えられます。
特にポーカーにおいては、「バッドビートをアクションの流れつきで主張してくることが多い人」はこれに該当すると考えます。「自分はちゃんと考えて打っているのに、相手の運が良かったから負けたんだ、可哀想でしょ?」というのが本質的な部分ではないでしょうか。
・ゲームの本質が欲を具現化する
さて、ポーカーというゲームを「悪い表現で単純化」すると、どういう言葉が適切でしょうか。私が思うのは、
「人の財を奪いとるゲーム」
です。マインドスポーツだのギャンブルだの表現は色々ありますが、基本的には相手が抱える財を奪う手段の1つです。もちろんトーナメントチップやアミューズメントのチップのように「そのものに金銭的価値がない」ケースもありますが、お金を払ってそのチップを使用する権利を得ている、あるいはそのチップを集めることで結果的にプライズに繋がるものであれば、相手の財に繋がると捉えていいかと思います。
これを前提とした時、ここまでの話にでてきた承認欲求を満たす行為というものは、結果的に「財を奪い取ること」とは反する行為になります。
例えば先のバッドビートの件であれば、「財を奪い取れなかった」という事実を展開することが、「本当は自分の方が強い」という承認欲求を満たす行為となっているわけです。
例えば先のテーブル上の他プレイヤーにアドバイスをする人というのは、「弱いプレイヤーは搾取の対象である」ということは分かっているはずなのに、「教えてあげるいい人になる」という承認欲求を満たす行為が先行していて、結果的には搾取の対象を減らしてしまっているのです。
これらの動きは結局のところ、「人の財を奪い取る」というゲーム性における「欲=財を奪う」を満たすことができない場合に、「承認欲求を満たす」と言う形で穴埋めしようとしているに過ぎないのです。
ポーカーはゲームの性質上、「勝てば利益、負ければ損益」という形になりますから、欲を満たせるかは実力、あるいは運に左右されるものです。となれば、欲を満たそうとして損をするケースもあります。ところが承認欲求を満たす行為というのは言ってしまえば自己満足の範疇であり、基本的に自分にとってプラスになるようにしか行動しないので、本人が損をするケースは稀なのです。というより、仮に周囲の印象面で損をしていても、本人は気づかないのです。
そう考えると、ポーカーにおける承認欲求を満たす行為というのは、ゲームそのもので欲を満たすことができない場合、つまりは勝てない場合の「自己逃避措置」とも捉えられるわけです。となると、欲深い人がそこまで強くない人ほどこの手の行動に走ってしまうと考えられます。一般的にアドバイス(お節介)してくる人が嫌われるのは、単純に邪魔であることだけでなく、そもそもアドバイスをもらうに値しない存在だと認識されてしまうからであり、その原因は行為そのものが自愛なものであることが透けているからでしょう。
・ナルシストとの混同
自愛表現においては、一般的にナルシストのほうが有名かつめんどくさいという認識が強いと思います。
自己顕示欲とナルシストはどちらも自身の価値が高いものであると表現するのが目的ですが、本質的には異なります。決定的な違いは自己肯定感の高さです。
ナルシストに該当する人は常人と比べて異常に自己肯定感が高く、その肯定感を阻害する要素を排除する傾向にあります。ざっくりいうと、「自分以外を下に見る」ことで自分の価値を相対的に高く見るのです。
一方で自己顕示欲は、「誰かに認めてもらう」ことで自分の価値を作ろうとするものであるため、自己肯定感に関しては低めになります。
この2つは結果的に同じ行為であっても、その結果に対するプロセスで事象の捉え方が異なります。なので、周囲が対応を誤るとより面倒なことになってしまいます。見分けるポイントはやはり「自己肯定しているかどうか」になるかと思いますが、似たようなフレーズでも捉え方次第で意味合いがブレてきます。過去に私がディーラーをしていたころや、ツイッターで見かけた発言で軽くだけ説明してみます。
例)
プリフロップでAKsを握って4betオールインしたらATsにコールされて負けた場合
A.「こっちはAKsしっかり打ってるのにATなんかでコールされて負けたわー」
B.「やっときたAKでオールインしたのにATにコールされてしまって捲られたわー」
C.「AKでATにプリフロオール負けたわ、俺が強すぎて神様が嫉妬してやがるんだな」
D.「AKはATにすら負けるゴミハンドですわ」
シチュエーションは全部同じです。
何となくCはナルシスト構文なのは分かりますよね。自己評価がバグってます。
ここまでの話を読んでいただいた方にはお察しの通り、BよりAの方がよりナルシスト寄りな発言です。
Aのセリフには自己肯定に繋がるポイントが複数あります。
①「こっちは」
これは単純で、「自分はちゃんとやっている」という部分のアピールになっています。
②「ATなんかで」
これも単純ですが、「相手のプレイしたハンドを乏しめる」ことで、自分のハンドはしっかりしていると主張しています。
③「AKs」
スーテッドであることを主張していること自体ではなく「自分のハンドはスーテッドであることまで説明しているのに、相手のハンドは説明されていない」というのがポイントになります。相手のハンドは評価しないことで、相対的に自分のプレイしたハンドの価値を上げているのです。あるいは、そもそも相手のハンドに興味が無いとも捉えられます。
③のようなパターンはおそらく当人も周囲も大して気にしない部分かと思います。もちろんたまたまつけ忘れたケースもあると思いますが、心のどこかで相手を下に構えたいという自己防衛が、こういった細かな部分に現れてしまう人も一定数いるでしょう。
また、Bのセリフで自己評価が低い点としては、「されてしまった」の部分になるかと思います。プリフロップというシチュエーションにおいて、AKsはATsより強いのは間違いないが、負けたことから逆算的に自分がコールされた事実を不正解とみなしています。数字的な評価よりも「自分が悪い」という自己評価が強く出ているように捉えられます。
Dのセリフは若干ひねくれたモノですが、「結果をベースに本来の強さとは逆を主張している」というのは、どちらかというと自己肯定が低いタイプの発言になります。
ここまでの検討はあくまで私の経験からの独断と偏見に基づくものですので、「これ知らず知らずやってたなぁ」とかあまり気にしなくても大丈夫です。
・承認欲求と逆行性
ここまで承認欲求をベースに色々な話をしてきましたが、ざっくりまとめると「誰かに認めてもらいたい」というのが行動の根底にはあるわけです。そして、承認欲求を満たそうとする場合には、傾向として「一般的な行動と逆行する行為」が多くなります。
アドバイスの件もバッドビートの件も、何ならバカッターも含めて、一般的な理屈や結果と異なる「独自性」を評価されることに照準を合わせるのです。しかし現代、特に日本においては情報共有がとても早く、その中でも「一般的な思考」を外れていると強く疎外される傾向にあります。それ故に、独自性を持っていると思われた思考がすぐに広まって普遍的なものになる、あるいは当人が照準を向けていないマイナス面が目立って悪評がたってしまうしまうのです。
前置きにも書いた、承認欲求を満たす行為が「恥ずかしい行為」と認識してしまうのはこれが原因であり、コミュニティの輪から外れてしまうことに対する恐れが強いのです。逆に、コミュニティという概念に対して否定的、あるいは特に何も感じない場合は、疎外されるという考え自体に至りません。結果的に「恥ずかしいと思う」人が「恥ずかしいと思わない人」を疎外したところで、お互いのポジションは何も変わらず、より認識の差が開いてしまうのです。
ということで今回は以上です。
前置きでも書いた通り、このnote自体が自己満足かつ承認欲求のカタマリみたいなもので、「私は何を言っているんだ」と書きながら思うことは多々あります。
少なくともポーカーをやっている人達は、キャッシュだろうがアミューズだろうがアプリだろうがポカスタだろうが、少なからず欲を抱えているはずです。例えそれが一般的な「勝ち」とは違うにせよ、相手にメンタルダメージ与えられればそれでいいとか、暇が潰せればそれでいいとか、そういった欲のカタチもありだとは思います。迷惑でさえなければ。
今回はここまで、オリンピックから2月以上経ってました。ではでは。
<オマケ>
正直note用の話題ストックが切れかかっているので、「こういうの書いてほしい」的なのあれば受け付けます。書けるかは別として。
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