雨が止まないうちに #猫を棄てる感想文

『猫を棄てる』あっという間に読み終えてしまった。
そして感想文を書くにあたり、少し時間をかけて2回目をいま読み終えたところである。
その2回目の途中で感想文を一つ書いた。勢いで読了した余韻を胸中と頭の中でもみながら整理し、事実関係を確認し、第一印象を大切にした。村上春樹の原点がここにあるんじゃね!?そんな内容だ。
それを経てこの二つめの感想文は、一つめでは表現できなかった部分を書いてみようと思う。

今作も相変わらずの読みやすさだった。
それがゆえに気がつくと「ん、今なんかすごい大切なことさらっと書いてあった?」というのがしばしばあった。街中で運転中、自分好みの綺麗な女の人が道を歩いていて、「あ、綺麗だなー」と見惚れてしまいそうになるけど、前を見ないと事故っちゃう。運転に集中しなくちゃ。。。。そんな感じである。
幸いなことに、運転中は簡単に後戻りできないけど本の中ならページをめくれば戻れる。すぐに戻れる。そう、たとえば最後のほうの、2つ目の猫のエピソードからのラストの締めかたはすごいなー、村上春樹だなー、と感じ入りました。
そうか、我々は雨粒みたいなものなんだよな。
我々は死んだら夜空の星になるというけれど、天で生まれ天から落ちる雨粒だとしたらうなずける話しだ。
しかも雨は蒸発して雲になり、また雨として生まれかわる。まったく我々人間と同じじゃないか!?

さて、村上さんの父親の千秋さんは熱心に俳句を詠んでいらっしゃったそうである。私も俳句を学んだ時期があり、3年間ほど月一回の句会に参加していた。
そこでは輪番で「私の一句」と題して自分が感銘を受けた句を皆の前で発表し、感想や見解を述べるというちょっとした時間があった。

捨てるもの男に多し枇杷の種

この句は「私の一句」として私が発表したもの。
実はこの句は会の主宰者Sさんが以前詠んだものである。他の皆さんはそのような身内から選ぶことはせず、季語集や教科書に載っていそうな句を披露するのだけど。
男性に限らず女性だって捨てたもの一つや二つあります、と怒られるかもしれない。そして捨てたもの自慢が始まりかねないなどと思ったりする。私だって、おれだって、いろんなもの捨ててきた、と。
そう、ある場合によっては捨てるという行為は実はまんざらでもないことがある。
しかし、「棄てる」だとニュアンスが変わってくる。そこにはクールな見切りの意味が濃く存在するように思う。それも生き物だったら胸がキュッとなる。

なぜ猫を棄てにいったのか。思いつきではなかったはず。
しかもどのようにして猫は戻ってきたのか。
しばらく私はこの、猫と千秋さんと春樹少年の間にどんな物語があったのか、その可能性について、はたまた人知をこえた物語について思いを巡らせた。なんとかこの感想文として形にできないものかと。
しかし、無意味なことだと気づいた。
猫は棄てられた。しかし2人を出しぬいて戻ってきた。
その事実があれば充分なのだ。
結果は起因を呑み込み無力化するし、遙か下の地上へ降り注ぐ雨粒たちがすべて垂直に落ちることはむずかしいのだから。
ただ、想像することは自由である。
あなたはどのように想像しました?
『猫を棄てる』。村上さんらしくいろいろな読み方ができる。
また読み返してみよう。雨が降りそそいでいるうちに。

#猫を棄てる感想文