村上さんの原点じゃないか!?

村上作品にどうして惹かれるのだろう。
平易な文章と難解な物語。
主人公にみる妙な親近感。
そしてそれらから感じる、手がとどいているのに掴みきれないもどかしさ。そのもどかしさの程度がほどよくて、ページをめくってしまうし、村上さんの新著が本屋に並ぶとなればほぼ無条件に手がのびてしまう。
掴みきれなかったものが今度こそしっかり掴めるかもしれないし、この胸元に抱き寄せることができるかもしれない。いつもそんな想いで村上作品と対面し、同じ作品を読み返したりしている。

今作『猫を棄てる』は村上作品によく登場するいくつかのキーワード(猫、神かくし、戦争)への手がかりを見つけられる。それらと併せて、初めて語られるご自身の父親のことや生まれた家のこと、仏教、俳句が語られることで、今までの村上作品に新たな色彩が加わった気がする。
特に私が注目したのは、村上さんの生まれた家がお寺と仏教にけっして弱くない繋がりがあったということ。仏教の教えも平易な文章で人の心にスッとしみ込む諭しが多い。それは村上作品の魅力に通ずる。
村上さんの文章が易しいからといって同じような文章や物語を描いても村上作品のように世界の人々の心を揺さぶれないだろう。それは、オリジナルとモノマネという表面的なもの以上に、村上作品はその物語と物語をつむぐ文章一字一句、文字のないところにいたるまでもが頭で考え導き出されただけでなく、村上春樹という一人の人間が抱えているスピリチュアルなゾーンから村上さんの指とペンを伝って作品に落とし込まれたものだからだ。
スピリチュアルなゾーンと言ったが、村上さんが執筆のときのご自身の状態の表現として「自分のなかの地下室へおりていく」とよくおっしゃる。その地下室のことだと私は考える。
その地下室のつくりとか、下りていく階段や扉、その地下室の要所に少なからずお寺や仏教に何かしらの繋がりがあるであろうと推測する。
ご自身がお寺と仏教にずっぷり浸からなかったのもミソだろう。もしお父様がお寺を継いでいらっしゃったらいまの村上春樹はいなかったかも知れない。

もちろん村上作品のコアはそれだけではない。先天的な作家としての才能にくわえ、ご自身が後天的に身につけてこられたのであろう人生観や音楽に対する造詣の深さが様々な作品に落とし込まれている。
今作もそうだが、村上作品の読みやすいリズム感は音楽といって良い。リズム感だけがよければ読みやすいとは限らないけど、読んでいてノレる文章とノレない文章ってあると思う。村上さんの文章はノリやすい。そういう意味では村上さんは私好みの作曲家であり、世界にも認められた日本語の作曲家である。
この読みやすさの元をたどれば日本古来の五七調や、お経の息継ぎやトーンに通ずるに違いないと思う。
音楽の話ですすめさせてもらうと、村上さんの長編はフルアルバム。中編はミニアルバム。短編集はシングル、と私は勝手に位置づけている。今作は、初のマキシシングルという感じだろうか。

最後に私の深読みになってしまったのだけど猫の2つのエピソードについて。
「猫を棄てにいったとき、箱の中にすでに猫は入っていなかった。父親を驚かそうと猫は最初から家に置いてきていた」という告白があるのではと期待した。
松の高い梢から降りられなくなった猫も、実は夜のうちに降りたのではと想像した。しかしこの2つの不思議なエピソードはそれ以上触れられることはなかった。
小説なら納得するが、現実として起こった事実だとしたら信じられない奇異な出来事である。
しかしだからこそ、この神かくしのような挿話には異界やあちら側の存在を意識してしまうし、村上作品の根幹の一部が垣間見える。
総じて、本書は村上作品愛読者としてはかなり興味深い一冊である。村上春樹の原点がここにあると言っていいかもしれない。

#猫を棄てる感想文