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僕らはみんな生きている



しばらく止まっていたこのアカウント。
どんな人が読むのか想像もつかないので、自由に書きました。
色んな人に読んでほしいとは全く思っていないし、反対に隠したい気持ちすらあります。
恥ずかしすぎるから。
けれど、僕自身が前を向くために必要だと思っているので公開し続けます。




どうやら、不幸せな事は不幸せな事を呼ぶようで、悉くネガティブになってしまった
何か皮切りがあったわけでなく、いつのまにか、何も出来なくなっていた
このままではいけないのだと分かっているけど、動けない、動かない
やらなければいけないことや、周りの人、メールや通知、家族から逃げ出した
布団の中に閉じこもった
明け方に寝て夕方に起きるようになった 
Wordでエンターキーを長押しして、改行し続けるような毎日

空虚な毎日
真っ黒な不安と、大きな恐怖
本当にやらなければいけないことは分かっているけど、向き合う気力も勇気もなかった
だけど、そんな日が一ヶ月も続くと、流石に居ても立っても居られなくなった
空白を埋めたくて、自分に向き合う時間が必要だと思って、止まっていた日記を更新するようにした
しゃもじとペンは握れるみたいだ
それまでは不定期ながら短いスパンで書いていたけれど、しばらく止まっていた日記
何があって、何を思ったか
中学・高校時代に余ったキャンパスノートに、3〜4行書く程度だった
そういう書き方をしていた
けれど、その日は原稿用紙5,6枚分ほど書いていた
続きをもっと書きたい
そう思って、この日からずっと書いた



そんな調子がしばらく続いた。きっとまだまだ不十分なのだろうけど、お陰で少しは自分の特徴みたいなものを学ぶ事が出来た。その日や次の日の目標を書き込むようにもなった。どこまでも面倒臭がりで、怠惰で、それをまた繰り返してしまうということは、まず、はっきりとわかった。

そもそも、これまで目標なんてなかった。
だから、獣道すら存在しない、まっ平なところで時間を無駄にしてきた。方向を自分で決めることがなかった。今までずっと、人に運んでもらってきた。
ペンのインクに任せて吐き出すことを吐き出して、目に見える言葉となった。
無駄な時間を振り返ったからわかった。それは「真面目な自分」という根拠もないイメージに甘えた結果だった。しがみつくように、頼っていた。
思い返してみると、大学生になるまではいつも誰かのそばにいて、人からの評価を気にしていた。本当はだらしないはずなのに、他人からの評価を期待して、「マジメ」な自分を演じた。

二つの距離の長さから、徐々に精神を消耗していたのかなと、今は思う。

大人に近づくにつれて様々な事柄が絡まるようになり、自他共に求められる像も、複雑で難解になった。一人の時間も長くなり、この距離はさらに開いた。自己への理解、そして管理、というのがあまりに欠如している。
だから実際は、何も出来なかったのではなくて、何もしてこなかったのだと、強く、思う。

正しく傷ついたことがないと思っていたが、それを悔やむことによる痛みも、また一つ、必要だった傷なのかもしれない。



鏡を見つめる。
証明写真に目をやる。 

不思議と少し、違っている。
僕が見て認識した世界と、世界が見る世界は必ずしも等しいとは限らないのだろう。

それでもこれは、僕が送る人生。
他人も生きるこの世界を、僕が生きている。
どのように受け止めるかが、僕が見る世界を決定し続けていく。

これは切っても切れない約束事。

そして、これからもきっと、色んなことで躓くのだと思う。

処世術みたいなものは沢山あるだろうけど、僕は日記という記録と、それを見返す時間をうまく使いながら、生きていきたい。

まさに今は、色んなものが壊れてしまっていて、それを直す途中。
必要な努力を惜しみたくはない。

正々堂々と胸を張って、また歩くために。



*見出し画像はこちらのページから引用しました。

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