哲学の話~国家の権威と従者と~

『「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものである』
ー「方法序説」より。


デカルトさんです。もしかしたら名前は聞いたことがある人も多いかもしれません。


マキャベリズムとも呼ばれる、結果として国家の利益を増進させるのであればどんな非道徳的な行為であっても許されるという中世の哲学の根幹をなす考え方は、マキャベリさんの思想に準じて作られた概念です。
”もともとこの世のことは、運命と神の支配にまかされている。だが、われわれ人間の自由な意欲は、どうしても失われてはならない”
マキャベリさんはルネサンス期に活躍した思想家さんです。現実主義の時代とも言われています。
”人間の理想なんてたいした意味はないよ、なるようにしかならないんだよ”
という考え方ですね。偏見ですか。意外にその通りかもしれません。だからこそ中世においては強い君主、国家が必要で、すべては国家間のパワーバランスにより左右されて、ときには悪徳の行使も辞さない、という姿勢が強い国家の構造を支えていきました。
マキャベリさんは『君主論』のほかに『政略論』や『戦術論』などの著書がありますが、国家としての軍事力を最優先させるべきという考えが根幹にあります。
しかし、近代哲学においては市民社会の原理を論じる方向にシフトしていきますので、哲学が政治や宗教にのみ込まれていく中世の哲学、強い国家をはぐくむ中世の哲学は次第に後退していきます。神も国家も市民生活の中で生み出されたものですから、市民が考え力を持ち始めれば、当然の帰結とも言えますよね。

さて、冒頭の一文。
近代哲学の重要な考え方はふたつです。どうやって主観が客観を認識していて、その認識が客観に一致しているとする根拠はなにか、ということを考える「認識論」と、人間のあり方は社会のあり方によって構想できるという観念の「社会哲学」のふたつです。
で、認識論といえばデカルトさん。近代哲学の祖とも呼ばれています。誰なんですか、呼んだのは。
デカルトさんは、「考えたら誰でもわかるところから哲学を考えようよ」ということを言ってくれたはじめての人です。哲学者のなかでも庶民により近づいた人ですね。この「共通了解」という考えをもってすればみんながひとつの共同体として考えを深められるよ、というようなことを言ったわけです。
「われ思う、ゆえにわれあり」こういうばかばかしいところから哲学したというだけでももはや功績と言えますよね。

15世紀~16世紀ころの『認識論』や、まだ紹介していませんが『社会契約学』の考え方は、まだ強い国家の存在が色濃く残っており、独裁的な強い国家の基で、個人と国家がどのような契約関係を結んでいくのか、ということが重要なものでした。
社会契約における国家の独裁制を批判し、個人の重要性を強く論じたのは『市民政府論』のロックさんですが、それはもう少し先のお話なので今日のところはここで。

【参考:読まずに死ねない哲学名著50】

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