いまさら人に聞けない~ヘンペルのカラス~

例えば何か深い事情があって、どうしても「カラスは黒い」ということを証明する必要に迫られたとしましょう。
今日はそんな事態に陥ったあなたを助けてくれるかもしれない論理学のお話・ヘンペルのカラスについてです。

この面倒くさそうな課題を終わらせるためのいちばん直感的な方法は、そこらへんの電柱にとまっているカラスを片っ端からふん捕まえてきてその羽の色を調べあげることです。
運がよければその中に黒くないカラスが見つかって、簡単に「全てのカラスが黒いとはいえない」ということがわかります。

ただしこの方法には、
・全てのカラスを捕まえるのは困難
・日本野鳥の会や動物愛護団体に怒られる
・だいたい黒くないカラスがいたとして、それをカラスと判別することが出来るのか
・そもそもやる気が湧かない
などの問題点が考えられます。

日本ではアルビノ変異種以外では見つからないそうです。ちなみに見つけたとしてもきっとカラスには見えません。
現実的にも不可能なカラスの全羽捕獲は諦めて、ここは論理学的な方法で問題を解決するしかありません。

科学的な仮説を検証する際に、よく用いられている仮説演繹法ではどうでしょうか。
この場合「全てのカラスは黒い」という仮説を立てて検証に臨むので、「次に見るカラスも黒いはずだ」という予想が演繹できます。
そしてカラスを次々と調べていくうちに「全てのカラスは黒い」という命題がより確からしくなっていく=信頼度が上がっていくわけです。

ここで、「全てのカラスは黒い」の対偶は「黒くないものはカラスではない」になります。
「全てのものについて、もしそれがカラスならば、黒い」
「全てのものについて、もしそれが黒くなければ、カラスではない」

つまり「全てのカラスは黒い」と言いたい場合、世の中のものを1つ1つ取り上げて、その中にカラスがいないことを示せばいいわけです。
黒くないものを見つけるたびに、それがカラスでないことを確かめる作業です。
仮説演繹法では、世の中のものを順番に調べ上げていけば、カラスを1羽も調べることなく「カラスは黒い」ということが証明できてしまいます。
これがいわゆるヘンペルのカラスです。

何故このようなことがおこるのでしょうか。
1羽も調べることなく「カラスは黒い」ということを証明できてしまうという結果を導くヘンペルのカラス。
カラスは見ていないけどカラスは黒いという命題が確からしくなっていく。確かに奇妙な話です。
しかし、ここまでに挙げた対偶論法や演繹法はちゃんとした手続きを踏んだ上で扱ったものなので、数学的・論理学的に間違っているところはありません。
ヘンペルのカラスは、仮説演繹法が時に一般的な感覚とは乖離した結果を導くことがある、ということを指摘しているのです。

ヘンペルのカラスをパラドックスだと感じる原因は、「黒くないもの」の数が非常に多いというところにあります。
範囲が限られている命題の場合、調べた事例の数に比例して命題の確からしさは上昇していきます。
しかし今回は調べるべき対象の数があまりにも多いため、何万個黒くないものを見つけても命題の信頼性はほとんど上がりません。
そのため「黒くないものを調べていけばいずれカラスが黒いと証明される」という論法が間違っているように感じるのです。

「すべて、無限」などを想定して扱うことが出来る数学の世界では、ヘンペルのカラスはパラドックスになりません。
1羽もカラスを見なくても、有限である「黒くないもの」を調べあげてそこにカラスが含まれていないことを確認すれば、「全てのカラスは黒い」と言うことが出来るのです。
また実際の生活の中で「AはBである」と言う場合、「Aは一般的にはBだ」という意味になります。
全てのAを調べた上でBである、と主張する機会はほとんどありません。それほど厳密さは求められないのです。

でも、そうですね。
カラスが黒いなんてことを証明しないといけないようなことが、そもそも人生において起こらないような気がしますよね。
それこそ、人生において起こらないことを今、証明している最中かもしれません。

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