哲学の話~道徳的法則への帰還~

~仮に世界が時間的な始まりをもたないとしてみよう。そのことは世界の開始点を決定することができず、無限に遡れることを意味する。
であれば、今この時点に到達するためには、無限に連なる世界の系列が過ぎ去っていなければならない~
ー『純粋理性批判』より


さて、イマニエル・カントさんです。
ここではっきりしておきたいのですが、これまでに紹介してきた哲学は、はっきり言ってとっつきやすかったです。近代以降の哲学は急にごちゃごちゃ考えすぎて途端に難しくなります。
それもこれも、ぜんぶこのカントさんのせい。それはもう絶対。ひとまず、カントさんは”先見的観念論”を唱えた人、です。


よく人に評価されることを「メガネにかなう」なんていいますよね、先見的観念論は一言でいうとこれです。
人はみんなそれぞれの考え方でフィルターされた色つきのメガネをかけていて、そのメガネ越しに対象や状況を認識していますよ、というものです。
以前にも紹介したデカルトさんの認識論はそもそも「共通了解」をどうやって取得するかということに主眼が置かれていて、スピノザさんなどに代表される合理的解釈の基で人々は平等に共通了解が得られるという合理論や、これまたここでも紹介したジョンロックさんに代表される経験したことしか認識として蓄積されないとする経験論など、共通了解の取得の仕方に相違がありました。
しかし、カントさんはそれぞれがそれぞれのメガネで見ているのだからその認識の仕方が違うのは当然だよね、ということを示したわけです。
このとき、カントさんが示した、人間が共通して持っている認識に至るための3つの装置が以下のとおり。
・感性:知覚データを与える装置
・悟性:概念を組み立てる装置
・理性:全体像を構成する装置

で、冒頭の一文です、やっと。

文章は以下のように続きます。
~また、世界のプロセスは完結していなければならない。さもなければ世界を全体的なものとしてとらえることができないから。それゆえ世界は限界をもたなければならない~
ー『純粋理性批判』より

感性によって得られた現象と、悟性によって判断された仮象に大きな差異が生まれる場合があり、このとき理念が正しいものにたどり着かないということを、カントさんは”二律背反”として4つ紹介しています。
そのひとつが「宇宙に限界があるか」というもの。そんなこと真剣に考えたこともなかったですけどね。


カントさんは、この『純粋理性批判』のなかで、~理性の意義は世界のあり方を経験的に把握することではなくて、なにが道徳的かを考えることだよ~ということを述べています。
のちに『実践理性批判』を著し、このなかで道徳的な行為に至るための”善”について述べていくことになります。
おもえば、ソクラテスさんが”いかに良く生きるか”ということを述べて始まった哲学は、いつのまにか国のあり方や個の在り方にばかり執着して政治や宗教に飲み込まれ、戦争に道具にまでなってしまいました。
カントさんの示している”道徳”の考え方は、これまでの神による恩寵でもなければ、共同体としてのルールでもなく、もちろん宗教的な教えでもなく、人間が理性をもって自らに与えるものです。

そういうふんわりしたものだとわかりにくいから国とか神とか使ってうまいこと誤魔化していたのに・・・とも思ってしまいますが。
とはいえ、哲学における善の考え方がこのカントさんを機に大きく転換したのは事実です。その功績は、人間の認識構造の共通性を明文化したこと。




【参考:読まずに死ねない哲学名著50】

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