哲学の話~それぞれの正義~

聖なる教は一つの学である―『神学大全』より。


1200年代中盤に活動していたトマス・アクィナスさんはスコラ哲学の分野で信仰の論証をしようとしました。
スコラ哲学といえば、「哲学は神学のはしため」という言葉にもあるとおり、哲学が神学を志すにあたって価値のあるものだという考え方を基軸にしています。

そんなアクィナスさんはキリスト教の大前提として「神様はいますよ」ということを様々な著書で一生懸命示しています。いわゆる、神の存在証明です。
この証明にあたって、アクィナスさんはアリストテレスさんの「不動の動者」という考え方を採用しています。不動の動者とは、すべての物事にはかならずその原因があって、原因をずっとたどっていったら神様にたどり着くじゃん?というなかなか無理筋のぶっ飛んだ理論です。

アリストテレスさんはソクラテスさんの弟子であったプラトンさんの弟子。そういう意味では確かに、教えは時代を超えて受け継がれていくといえるのかもしれません。
ソクラテスさんの弟子のプラトンさんも、たくさんの著作が残されています。基本的には誰かとの会話形式のもので、とにかく本当に読みにくいですが。
良し悪しやら善悪やらと「よく」生きることを追求する過程で、「正義」という概念がより強く表層化してきたのは、対話形式で物事を考えたからなのかもしれません。

~ある日、羊飼いのギュゲスは、羊たちに草を食わせているとき、黄金の指輪を見つけた。指輪を身につけて、玉受けを回したところ、自分の姿が透明になることがわかった。そこでギュゲスは、その指輪を使って国王を殺し、王権を手に入れた~

これはプラトンさんの著書『国家』のなかで語られたエピソードトークです。ギュゲスなんていかにも悪そうな名前ですけどね。なかなか血なまぐさい感じです。ロードオブザリングに似てますか、似てませんね。

本文は以下のように続きます。

~この状況で、最大の不正よりも正義選ぶ人、いる?正義選べる根拠、ある?人にばれないように偽善者ぶってこっそり手に入れちゃえばさ、それだけで将来安泰でしょ?~

たぶん、こんな感じです。もちろん、原文の通りではありません。これは原文のほうが伝わるかもしれません。ちょっと咀嚼しすぎました。日本語ではありませんが。
何が言いたいかといえば、誰にもバレないなら悪いことしちゃうよね、ということです。プラトンさんはこの話をとおして教育の重要性を訴えはじめます。良し悪しを判断させるよりも、自然に善を選ぶ方向に導く教育こそが重要なのだ、というスタンスです。
バレなきゃ悪いことしちゃうような人を教育でなんとかしようなんて、若干弱すぎやしないかなぁ、と思わないではありませんが。でも、こういうことをあーでもないこーでもないと一生懸命考えたのはソクラテスさんやプラトンさんがはじめてだったわけですから、なんだかスゴいですよね。しかも紀元前。いわゆる例の神様もいないような時代です。

プラトンさんが教育に重みを置くようになったのは正義の選択のためですが、アリストテレスさんはすべての選択が良くも悪くも神によって導かれるものだと考えてたわけです。プラトンさんは甘い!といったかどうかは知りませんが、思考の根源に必ず神という存在があって、考え自体はうつろいでいくけれど、神そのものは動いていないですよね。というのが不動の動者の考えの根幹です。心にいつも絶対なる神がいれば選択は誤らない。ちょっと怖いですけどね。
とにかく、アクィナスさんはアリストテレスさんの哲学を用いて宗教の教義を統一し、人々に定着させようと尽力しました。アリストテレスさんが神に重きを置いたことで、宗教と結びつけやすかったんでしょうね。大事なことは、古代ギリシアのよく生きるため哲学が、時を経て中世にさしかかり神学というか宗教の概念のなかに飲み込まれてしまった、ということです。よく生きるための哲学は時代のなかでどんどん庶民から離れていくことになります。

中世の哲学は次第に「王権神授説」とかいう読んだだけでぶっ飛んでることがわかる方向に進みます。哲学が政治と宗教に埋没した時代です。
そこからまた時を経てようやく、学生時代にも確かに学んだ「社会契約説」へと発展していくことで、哲学はふたたび庶民の基に戻ってくることになります。

【参考:読まずに死ねない哲学名著50】

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