豊岡演劇祭 範宙遊泳『バナナの花は食べられる』-「ら」が「ら」であるための物語たち

豊岡演劇祭ディレクターズプログラム 範宙遊泳『バナナの花は食べられる』
芸術文化観光専門職大学 静思堂シアター
作・演出:山本卓卓
出演:埜本幸良、福原冠、井神沙恵、入手杏奈​、植田崇幸、細谷貴宏

主人公の穴倉の腐ったバナナ(穴ちゃん)は、マッチングアプリで男性を釣ることで小銭を稼いでいた百三一桜(穴ちゃんに131回釣りのメッセージを送ったことから命名される)と出会う。衝突しながらも俺「ら」になった二人は探偵ごっこを続けるうちに、さらにレナちゃんさん、くびちゃん(ミツオ)と「ら」の関係になり、穴ちゃんが過去に出会ったアリサさんに告白するため行動を起こす。
お互いに名前も知らないままの彼らの、緩やかで脆い連帯は人を傷つけ、人を助ける、というアウトローたちの危うくもたくましい繋がりと人生が描かれる。

途中休憩を挟みながら上演時間3時間15分とかなりの長さがある作品だった。穴ちゃんや百三一桜のユーモアがあるおかげで長さは感じないのだが、それでもほかの作品と比べるとはるかに長い。この演劇作品は最終的に穴ちゃんの死と、アリサさんを死から救うことに向かっていくわけだが、そこに向かう物語だけに注目するのであれば不要なシーンや台詞がたくさんあり、正直工夫すれば上演時間はもっと短縮されたのではないかと思える。ユーモアのおかげで、と書いたが過剰なユーモアもあるし、回想シーンも丁寧すぎるほどあるのだ。ただ、客観的に見れば不要ではあるのだが、この作品の本質はその長さと語りの丁寧さにこそある。彼らがどこに惹かれ、どのようにして「ら」になったか、彼らが持ち合わせている世間からのクズのレッテルたち、そして危うくすぐにでも壊れそうな状態を表現する身体性という、時間をかけて語らえる物語たちをこの作品から排除してしまうと、彼らの生き様にここまで心が揺さぶられることがないのではないか。この遠回りの物語たちの中にある、強がりやクズさや希死念慮に向き合いながらも懸命に生きて時間を前へ進めている姿こそ、この作品の強さであった。

岸田國士戯曲賞を取っただけあって、戯曲の言葉がとにかく面白い。「人を救いたい」という穴ちゃんに百三一桜が「キリストにでもなりたいの?」と聞くと、穴ちゃんは「あのお方はどちゃくそセンスのある人だとは思うけどねえ。じゃなきゃ殺戮がデフォルトの時代に愛なんか叫べないっちゅうねん。」と返答する。こんな台詞他では聞いたことがない…。面白すぎる。
同じシーンで、自分の存在は必要かと聞くくびちゃんに、穴ちゃんは「必要じゃなくて必然」と答える。運命とかではなく、出会っちゃったから必然。この前へ前へという心持から出てくる穴ちゃんの言葉は、生きるのに不器用ながら懸命である姿をまさに表す、完璧ではないけれど力強い台詞だった。

アリサさんに思いを伝えるべく行動する彼らは、取り返しのつかない過ちをしてしまうのだが、この過ち自体が不器用さと脆さに起因していることはこれまでの彼らを見ていると悲しい気持ちになってしまう。この過ちの後にレナちゃんさんは「頼むよファンタジー。なんとかしてよ?ファンタジー。」という台詞を言い、彼らが「ら」であるために名前や過去を置き去りにしたことに復讐されてしまう。名前や過去は不要だったのではなく、目を背けていた。この作品は決して何かから逃げているだけではなく、逃げた先にある復讐も描く。でもそこに到達したからこそのファンタジーの強さがラストに描かれることで、演劇を好んでみる私たちの背中を押してくれるようだった。

この作品のなかでの唯一のフィクション要素といっていいのが、くびちゃんが一部の人の死期が見えるということ。作中の台詞にあるように、シンプルなはずの物語をこの死期が見えるという能力で複雑にさせている。しかしこの決して逃れることのできない「死」に、懸命にユーモアとファンタジーを用いて抗おうとする姿は不器用ではあるが、彼ららしい姿だった。穴ちゃんの台詞を借りるならば、「最悪を狙うと最高になっちゃう」。決して逃れることのできない運命が目の前に来た時に、無理をしてでも笑って生きようとする穴ちゃんに、何の取引もなく生きてていいんだと励まされる。それはラストの穴ちゃんの台詞にもある。冒頭フィリップ・マーロウの「優しくなけりゃ、生きる資格なし」という言葉が登場するが、それを逆手に取った出会った人全員を救う穴ちゃんのラストの言葉はずっと心にしまっておきたい言葉だった。

先ほど不要と思われるシーンも多いと書いたが逆に作中で語られないことも多い。穴ちゃんの前科一般は詳細不明だし、くびちゃんが過去に何をしたのか、それぞれキャラクターのこれまでは不明だし、ラストまで見ても彼らのこれからは描かれていない。それは尺の関係でカットしたのでなく、「ら」であることに必要か不要かというところで選択されているのではないだろう。この3時間という長さで描かれる様々な物語は「ら」であるための小さな物語たちの積み重ねなのだ。

まっすぐに進む物語ではない。穴ちゃんの言葉を借りると「風景が全然変わらない。じらされてる。イマジネーションだけが変わる。」。演劇は、観客が舞台を一方的にみるという行為で風景は変わらない。でも観客のイマジネーションはどんどん変わっていく。この演劇の中では、別にだれが成長するとかはどうでもいい。そんな風景は望んでいない。でもこの小さな物語たちに、じらされながらイマジネーションが変わり、そして救われる、そんな作品だった。


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