豊岡演劇祭 こまばアゴラ劇場国際演劇交流プロジェクト2023『KOTATSU』 「みんな何かある」

作・演出:パスカル・ランベール
共同演出・日本語監修:平田オリザ
翻訳:平野暁人
出演:山内健司、兵藤公美、太田 宏、知念史麻、申 瑞季、荻野友里、佐藤 滋、森 一生、名古屋愛、淺村カミーラ(以上、青年団)
スイング:たむらみずほ、川隅奈保子、福田倫子、中藤 奨(以上、青年団)

同族企業の社長である宏を中心として、海外で起きた事故から始まる不和と価値観のすれ違いを描いた作品。
舞台は炬燵を中心に添えて上手・下手・奥側と三面が屏風に囲まれた、古典的な和風の、そして見るからに裕福な一家である。日付は1月1日。正月だから全員が集まるということに加え、何か大きな事故・事件があったことが醸し出されている。

冒頭のシーンでは浴衣姿の宏が薄明かりの中、たばこを吸いながらスマホをいじっている。時間をかけてゆったりとした時間が過ぎていき、スマホという存在の違和感が残る。のちにこの宏が社長を務める東京建築の資材を使用していた工事現場で事故が起こったことがわかるのだが、「海外の事故」という遠景が、このあまりにも日本的な舞台や浴衣を着て炬燵を囲みながらおせち料理を食べる近景とアンバランスでズレを感じる。
宏の娘である愛は、フランス留学を控えており、また詩を好んで読む。彼女の元ベビーシッターであるカミーラもこの家族のお正月に招かれた。
さらにはそこへ夫の滋とともに帰国した宏の妹の公美が合流し、海外風を吹かせる。一族は皆で炬燵を囲みながらおせちを食べるのだが、元旦はのんびり過ごすものだ、元旦はみんな仲良く過ごすべきだという前提が強調されるため、むしろ家族であっても何か気を使ったりする様子が浮き彫りになり、何となく居心地の悪いあるあるになっている。この点、作のパスカル・ランベール(と監修の平田オリザ、翻訳の平野暁人)の手腕が光る。

話はメジャーリーグでプレーをした滋の孤独や、在日である瑞季、ウズベキスタンと日本のミックスであるカミーラの、「どっちつかず」やホームに話が及ぶ。そこで瑞季は「こうやって炬燵を囲んで、みかん食べて。~家族で炬燵を囲んでみかん食べるなんて絵にかいたような幸せじゃないですか。」という台詞を述べる。目の前の炬燵でリアルな人間とともにみかんを食べるという典型的・古典的な幸せと、海外の事故という遠景への不安、そして確かに目の前で炎上しているSNS。このアンバランスでアンビバレントな出来事と感情が、炬燵(=幸せな家族像)を中心に展開していく作劇が巧みだ。

シーン19「宏、公美」では公美の長い台詞のみで構成される。声明を出さない社長である兄への怒りが、「日本的」であると揶揄し言いたいだけ言って去っていく。
シーン20「宏、友里」では、兄弟の中で末っ子の友里が、仲良くしてくれていた兄としての宏へ、これからの不安を一方的に吐露する。
シーン21「宏、健司」では唐突に長男の健司が登場し兄弟同士の会話がなされる。ラストシーンにして宏がやっと堂々と口を開くシーンでもある。宏は自慢の弟だという健司に、黙って話を聞く宏。自らの失敗を話しながら、「真実の言葉」を突き付けることを提案して健司は立ち去っていく。
シーン22「宏」では一人になった宏がたばこを吸いながら詩の続きを読む。このシーン19~22が宏とそれぞれ兄弟(シーン22の自らとの対話も含め)との対話という構成になっている。一見、自分勝手な公美、わかりの良い妹の友里、ふらついている兄の健司と見えるが、健司の「まあみんああるんだよな、お互い。ちょっとしたもやもやとか、あの時のイラッとしたみたいな。」がそれぞれ心のうちにある。
決して家族内の問題をアウトサイダーが解決するというものではないが、「みんな何かあるんだ」という諦念と少し突き放す感じが宏を勇気づけているように思える。「みんな何かある」というあやふやではあるが何となく理解できるのは、遠景ではないし、SNSの暴力でもない。それは想像によって相手を慮ることであり、目には見えないが目の前にあるものである。
炬燵を中心に添えたこの作品の、真の中心にある、家族でも分かち合えない「みんな何かある」と考えることを努めることが作品のテーマのように思えた。

フランスを代表する劇作家であるパスカル・ランベールは平田オリザと多くの協同プロジェクトを行っており、日本でも彼の作品が様々上演されてきた。今回の『KOTATSU』もその協同プロジェクトの一環である。
この作品で面白いのは、役名が演じる俳優の名前であるということである。平田オリザ作品・青年団作品であてがきされたものは観たことがなかったが、平田が監修を務め青年団の俳優で演じられるこの作品はあてがきされた。大きい意味はないのかもしれないが、私たちが生きる上で考えを避けることのできない「家族」というものに焦点を当てたこの作品を敢えてあてがきしたというところで、作者の矜持みたいなものも感じることができた。

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