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快楽の小盛り 02:銭湯

ルース・ベネディクトの「菊と刀」に曰く、快楽に消極的な日本人がおおっぴらに楽しむものが風呂なのだという。銭湯を知るまではこれを甚だ疑問であると思って頭の片隅に置いておいたが、銭湯の広い湯船で湯に撫でられるとこれは然りと思わずには居られない。平日の昼間に風呂屋に行くのは全くの快楽である。


とはいえ、湯に浸かるのもサウナもさして得意ではない。身体が熱をもってぼうっとするのが苦手だ。肺が腫れぼったくなった気がして息苦しい。それを推して湯に入る。サウナに入る。湯船で体を伸ばしていると重力の軛から外れた足がほどけてゆくような気がする。そうやって風呂も悪くないなというぐらいの顔はしてやるが、ほんとうは退屈で仕方がない。それをぐっと耐えて、陸地なら汗が絞るほど出たろうなというぐらいまであたたまる。ここからが風呂屋のトロの部分である。

懐疑派のおれをして風呂を快楽だと思わしめた真の力の源は風呂屋の奥にある。渾々と冷水の湧く水風呂である。湯船でひととおり温まった体を抱えて水に足先を浸ける、脛を浸ける。水面が膝を越えるあたりで尋常の覚悟ではもうこれ以上いけないという境地にやってきた。ルルドの泉もかくやというほど澄み切った水風呂は水面上三寸を数えるまで冷気を湛えて鎮まっている。おれは修験者めいて両手をひしと組み、功夫の達人がするような長い息を吐きながら肩まで沈まんとして身を屈める。凍えるような水が激として精神を打つ。身体がいくら湯で火照っていてもこの瞬間は辛い。吐いた長い息が吐くうちに冷えていくような気がする。肩まで浸かって長い息を吐き終わってしまうと、霊峰富士もかくやと言わんばかりの澄んだ境地があった。

風呂屋の音がやけによく聞こえる。目も普段の倍ほどに開いて、壁のタイルまでやけに鮮やかに写ってくる。内側からくる熱でぱんばんに張った魂がどんどん清くなる気がする。熱は滴る汗の連想があるためか、我が身がやたらな熱を持っている状態は不浄に傾いた気がするところを、その真逆の綺麗な冷水で体を包むのだからたまらない。文学は熱を欲望と結びつけて書くが、だとすれば冷却は深い悟りだと言える。仏陀が説いた六根清浄とはこのことかという実感がある。充分に温まった身体が水風呂の冷気と拮抗して皮膚に一種のアウラを纏わせて温かい。満ち満ちた冷水すべてがおれの味方をしているような心地だ。

さて、というところで水風呂から上がると生まれ変わった心地がする。再臨したキリストはこのような気持ちであっただろうか。体内はまだ意欲するのに必要な熱を湛え、体表は冬の朝のように爽快な冷たさを持っている。英語でcold steelと言うと鋭い刃物のことを指すが、水風呂から上がったときのおれはまさしく一本の研ぎ澄まされた青い打刀である。今なら分数の割り算が苦も無く解けるぞ。百升計算を持ってこい。

冴えた頭で風呂場の淵に腰掛けると風が気持ちいい。感染症の時分もあって窓は空いていて空気は澱まず流動的で、開いた窓枠から外が見える。明るい時間に風呂屋に行くから明るくて然るべきだがどうしても「道楽」という感じがして楽しい。と思うと目の前を立派な彫り物が通り過ぎたりして何となく眺めたり目を逸らしたりするのも面白い。 

喉の渇きを覚えたら潮時である。体を拭いて服を着る。気分が良ければ香水を振るのもよろしい。この時期は空気が冷えてくるので甘い香水が重苦しくなくなってくるのが嬉しい。脱衣所の鏡で我が顔を見ると蛍光灯の光を跳ね返して肌が艶やかである。全く風呂上がりの顔だという気持ちがする。

番台に申告して冷蔵庫の水を取ると一息に飲んでしまう。喉を通り過ぎるときの感触が冷たくて気持ちがいい。こうなると、風呂の楽しみとは冷えることにありはしまいか。英語でchillと言うと冷えることを意味するが、同時に落ち着いた雰囲気のことも指す。安寧とは冷えである。熱とはものを構成する分子の振動であるからして、絶対零度がその分子が完全に静止した状態であるように、冷えていることと安息していることは等価だ。死体の冷たさと安らかさを見よ。

喉と肌を充分に冷やしたおれは死んで生まれかわったキリストの気持ちで風呂屋の玄関を出る。着込んだ中の体は歩き出すと熱を持ってあたたかい。熱とは意欲のことだ。太陽は傾きかけて夕方の顔をしている。北へ向かうとピアノの音が漏れる家があってイヤホンを外して歩いた。耳元を風が通って静かな音がする。風呂上がりの風は小盛りの快楽である。

This is big showt out to "サウナの梅湯".

【サウナの梅湯】
京都府京都市下京区岩滝町175 
営業時間
14:00〜26:00
(現在日曜のみ6:00〜12:00も営業)
定休日:木曜
https://twitter.com/umeyu_rakuen

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